! 必 読 事 項 |
▼ ▼ ▼ ▼ 犬神/京一 執筆:ナツ スクロールする前に必ず ココ を読んでね。 |
Lunatic Moon |
壁を赤く染めていた西日が、ブラインドの隙間に吸い込まれるように掻き消えた。 机上の照度が急に落ちたせいか、ザラ紙に印刷された小さな文字が水で滲んだようにぼやけて写る。 俺は小さく息を吐き出して眼鏡をずり上げ、こめかみを指で摘まむように強く押した。 涙が、目の縁に少し滲む。 書類に集中していたせいか、時間が過ぎるのを失念していたようだ。 そんなことを考えながら丸い壁掛け時計を見上げると、針は午後の六時半を二三分ほど過ぎたところを指し示している。 生徒の帰宅時間は午後四時と校則で決まったいるせいで、すでに校舎の中は静まり返っていた。 帰り時かな……。 俺は欠伸をかみ殺すと、ぬるくなったインスタントコーヒーに口をつけ、その苦さに顔をしかめる。 期末が近いせいもあってか、ここの所は忙しい。 目の前にあるものだけ片付けてから帰るか、と見切りをつける。 そのレポートの中に誤字を発見し、そこに赤を入れようとペンを動かした。 とたん、大して力を入れてもいないのに、持っていた筆記具の胴体が手の中で真っ二つに折れる。 一体これで何本目になるだろうか。 もちろん、このボールペンが欠陥品であったわけではない。ただ、この時期の俺の握力が常人離れしすぎているせいである。 「ちっ……」 誰のせいでもないが、思わず舌打ちし、声にださずに呟いた。 今日はフルムーン、か……。 「人外」の生物……まあ解り易い言葉で一言で表すと、「狼男」となるだろう……の俺にとって、月が最大に満ちているこの日が一番苦しい時だ。 人間の身体には収まりきれない獣の力を精神力だけで押さえつけているのは、退屈するくらいの時間を生きているこの俺ではあるが、慣れるということはない。 こんな状態で職員室に居座るのはいろいろな危険がともなうので、放課後はほとんど人の寄り付かないこの生物の準備室を愛用している。 身体の中で渦巻き、出口を求めてさまよう「力」から目をそむけるように、俺はふたたびザラ紙のレポートに目を走らせた。 その時だ。 がらりと音がして、部屋の戸が開いた。 「ん……」 視線を投げると、布に包まれた木刀の長い影が、まず目に入る。 こんなものを四六時中後生大事に抱えて歩く珍妙な人物は、俺の知る限りは一人しかいない。 「……蓬莱寺か……おまえ、こんな時間まで残っていたのか」 真神学園二年B組の男子生徒、蓬莱寺京一。 担任ではないが、生物の科目を担当しているので、つまりは、俺の教え子にあたる。 何時ものことだが「失礼します」の挨拶もなしにずかずかと入って来、「ほらよっ」と、ホチキスで止めた数枚のレポート用紙を無遠慮に机の上に置いた。 いや……置いたというより、投げたという形容の方がしっくりくるだろう。 どうやら、彼はこのレポートを書くためにこんな時間まで残っていたらしい。 それは、本来ならば三日前に提出期限のものである。 提出する気はないと言い張る蓬莱寺に、出席日数の低さでおどしをかけ、なんでもいいからとにかく書けと半ば命令して書かせたものだった。 レポートをぱらぱらとめくり、中身を確かめる。 この蓬莱寺という生徒は、居眠りにサボリと、授業態度の悪い方の模範生のような男だったが、そんなガサツさとは裏腹に、実に几帳面な文字を書く。 上手いとか綺麗という種類の文字ではないのだが、マス目に入っているように大きさが統一され、ノートの空白に噛み付くように跳ね上がった右上がりの楷書体。 その力強さに感心しながらざっと目を通すと、なんでもいいと言われた通りの、まったく支離滅裂な内容のレポートだった。 ところどころはあきらかに教科書の丸写し。さらにその間に友人のもの……文体からして彼と同じクラスの醍醐雄矢だろう……をまるまる模写した文。そして申し訳程度の考察。 そのまとめの文がまた、まったく前の内容と一致していない。 提出しないよりは、した方が一点くらいはマシになるだろうという、形だけのレポートの典型的なやつだ。 俺はこれみよがしに深い溜息をついてみせた。 「まったく……お前は相変わらずだな……日本語はもう少し解るように書かんか、蓬莱寺」 「なっ……なんだとッ、十分読めるだろッ」 「一応文字としては読めはするが、内容はさっぱりだ」 文字としては、というところにわざと強くアクセントをおく。 「うるッせえな。いいだろ、なんでも良いって言ったのはテメーだろッ」 蓬莱寺は不機嫌な顔になり、吐き捨てるようにそう云った。 「まあそうだがな……」 俺は苦笑して、あごをなでた。 「いい加減『先生』という単語も覚えたらどうだ?」 美人の(こういう条件がつくあたりがまた呆れるのだが)女性教師に限り、この男の愛想がのしつきで配られているのを、俺は知っている。 だが蓬莱寺はこの言葉には、だんまりと決めているようだ。 別にこれ以上説教するほどのことでもないか…… 俺はレポートを受取り机に仕舞いつつも、 「今回は一応受け取るが、今度写すときは、せめて文体くらいは整えてこい。異様に丁寧な文体とそうでないもの混じっているのはあきらかに不自然だぞ」 と念を押すことは忘れない。 「はいはいはい」 反省の色など皆無のそんな返事をして蓬莱寺が出て行こうとした時、俺の嗅覚がふと血の匂いをかぎつけた。 しかもこの血の匂いは…… 「それ」に気付き、俺の表情は険しいもになった。 「おい蓬莱寺。おまえ、どこか怪我をしているのか」 「怪我? んだよ急に……んなのねェよ。見りゃ分かるだろ」 じゃあ何だ、この血の匂いは。 ・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・ この血の匂いは……あきらかに人間のそれとは違うものだ。この台詞は口に出さずに、厳しい目線を蓬莱寺と合わせた。 「……おまえ、何かしただろう、何だ?」 「べ……べつに……部活しかしてねェよッ」 つと蓬莱寺が俺から視線をそらして、声のトーンを低くした。 この男のいいところといえば、この、嘘がつけない体質だろう。 心臓の鼓動がわずかに上昇する。 しばらくの間、沈黙が降りた。 それからまた口を開いたのは、俺の方だった。 「……旧校舎、か?」 この単語に、相手からは僅かな反応があった。 この真神学園の校舎の近くには、古い旧校舎が建っている。 その奥深くには……獣が住む。 そう……この俺と同じ血を持つ輩が、今なお人目に触れることなく、放浪いつづけている場所だ――。 「何をしている?」 「何もしてねェって云ってるだろッ」 「待て――」 怒鳴って出て行こうとする蓬莱寺の腕を、俺はつかんだ。 そのとたん、さらに血の濃密な匂いが、鼻孔から頭の芯にツンとつきぬけた。 力を意図的に押さえるのをしくじったと思ったときは、もう遅かった。 「っ……」 満月で増幅している嗅覚に、魔物の血の匂いが絡み付いてくる。 脳髄の深いところで、共鳴が始まった。 からだ全体の血が音叉にでもなったように、その匂いに震えた。 心臓は全開した蛇口のように、血液を急速に押し出されていく。 ハンマーで側頭部部を殴られたように、ひどい頭痛が襲ってくる。 おそろしく長い時間が過ぎたと思ったが、実際はコンマ一秒にも満たない出来事だ。 「離せって……」 蓬莱寺の腕がスローモーションビデオを見るようにコマ送りで近づいてきて、俺の手を振り払った。 それ自体は蚊に刺されたほどの刺激でもなかったのだが、俺は俺自身の身体の奥の変調に耐えられず、不覚にもよろめき、床に膝をついた。 くそ……まずいことになった。 「あ、ヤバ……っと……そんなに力いれたつもりじゃなかったんだけどな……」 蓬莱寺がそう言い、俺に手をのばしてくる。 まったく、こいつは……いらないところで気をまわすな…… なんとかその衝動を押さえつけようと、俺は格闘した。 脂汗が、額をつたってぽたりと床に落ちる。 「犬神、おいッ、大丈夫かよ」 肩に触れたその手を、俺は払いのけた。 「大丈夫だ。……いいからもう行け」 「ってよ……大丈夫じゃねーだろ。真っ青だぜ、顔……どっか悪いのか……」 蓬莱寺がしゃがみこみ、顔をのぞき込んだ。 そのとたん。 血が……さらに濃くなった血の匂いが、身体に流れ込んだ。 理性の限界だ。 俺は意識のどこかで、ヒューズが切れた音を聞く。 自動人形のように、身体が動いた。 俺の腕が蓬莱寺の肩をつかむ。 その顔が、苦痛で歪んだ。 「いっ……て」 彼の持っていた木刀が、カランと床に転がった。 「なにしゃがるッ、テメェ!」 相手が怒声を発したが、俺は無言のままだった。 この時期の力の恐ろしさは、自分自身がよく分かっている。 たとえどれほどの力があろうと……蓬莱寺が人間である限り、俺に敵うはずがない。 ここ数十年、押さえつづけてきたもの……本能から生まれるサディスティックな快楽が、俺の脳を満たしていく。 そのまま、蓬莱寺の身体を投げるようにして床に押し倒した。 「ツ……」 その苦痛にあえぐ声に、歓喜が波のように押し寄せてくる。 相手の抵抗を封じ込め、魔物の返り血の残滓の残る肌に舌を這わせた。
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Luna、という言葉が月を表すラテン語だというくらいは誰でも知っていることだろう。
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身体のけだるさに負けて目を瞑っていたのは、だが少しの間だけだった。 |
京一は高校2年デス BY ナツ
Web初掲載:1999/10/20 |