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 !  必 読 事 項





犬神/京一
執筆:ナツ
スクロールする前に必ず ココ を読んでね。

Lunatic Moon

 壁を赤く染めていた西日が、ブラインドの隙間に吸い込まれるように掻き消えた。
 机上の照度が急に落ちたせいか、ザラ紙に印刷された小さな文字が水で滲んだようにぼやけて写る。
 俺は小さく息を吐き出して眼鏡をずり上げ、こめかみを指で摘まむように強く押した。
 涙が、目の縁に少し滲む。
 書類に集中していたせいか、時間が過ぎるのを失念していたようだ。
 そんなことを考えながら丸い壁掛け時計を見上げると、針は午後の六時半を二三分ほど過ぎたところを指し示している。
 生徒の帰宅時間は午後四時と校則で決まったいるせいで、すでに校舎の中は静まり返っていた。
 帰り時かな……。
 俺は欠伸をかみ殺すと、ぬるくなったインスタントコーヒーに口をつけ、その苦さに顔をしかめる。
 期末が近いせいもあってか、ここの所は忙しい。
 目の前にあるものだけ片付けてから帰るか、と見切りをつける。
 そのレポートの中に誤字を発見し、そこに赤を入れようとペンを動かした。
 とたん、大して力を入れてもいないのに、持っていた筆記具の胴体が手の中で真っ二つに折れる。
 一体これで何本目になるだろうか。
 もちろん、このボールペンが欠陥品であったわけではない。ただ、この時期の俺の握力が常人離れしすぎているせいである。
「ちっ……」
 誰のせいでもないが、思わず舌打ちし、声にださずに呟いた。
 今日はフルムーン、か……。
「人外」の生物……まあ解り易い言葉で一言で表すと、「狼男」となるだろう……の俺にとって、月が最大に満ちているこの日が一番苦しい時だ。
 人間の身体には収まりきれない獣の力を精神力だけで押さえつけているのは、退屈するくらいの時間を生きているこの俺ではあるが、慣れるということはない。
 こんな状態で職員室に居座るのはいろいろな危険がともなうので、放課後はほとんど人の寄り付かないこの生物の準備室を愛用している。
 身体の中で渦巻き、出口を求めてさまよう「力」から目をそむけるように、俺はふたたびザラ紙のレポートに目を走らせた。
 その時だ。
 がらりと音がして、部屋の戸が開いた。
「ん……」
 視線を投げると、布に包まれた木刀の長い影が、まず目に入る。
 こんなものを四六時中後生大事に抱えて歩く珍妙な人物は、俺の知る限りは一人しかいない。
「……蓬莱寺か……おまえ、こんな時間まで残っていたのか」
 真神学園二年B組の男子生徒、蓬莱寺京一。
 担任ではないが、生物の科目を担当しているので、つまりは、俺の教え子にあたる。
 何時ものことだが「失礼します」の挨拶もなしにずかずかと入って来、「ほらよっ」と、ホチキスで止めた数枚のレポート用紙を無遠慮に机の上に置いた。
 いや……置いたというより、投げたという形容の方がしっくりくるだろう。
 どうやら、彼はこのレポートを書くためにこんな時間まで残っていたらしい。
 それは、本来ならば三日前に提出期限のものである。
 提出する気はないと言い張る蓬莱寺に、出席日数の低さでおどしをかけ、なんでもいいからとにかく書けと半ば命令して書かせたものだった。
 レポートをぱらぱらとめくり、中身を確かめる。
 この蓬莱寺という生徒は、居眠りにサボリと、授業態度の悪い方の模範生のような男だったが、そんなガサツさとは裏腹に、実に几帳面な文字を書く。
 上手いとか綺麗という種類の文字ではないのだが、マス目に入っているように大きさが統一され、ノートの空白に噛み付くように跳ね上がった右上がりの楷書体。
 その力強さに感心しながらざっと目を通すと、なんでもいいと言われた通りの、まったく支離滅裂な内容のレポートだった。
 ところどころはあきらかに教科書の丸写し。さらにその間に友人のもの……文体からして彼と同じクラスの醍醐雄矢だろう……をまるまる模写した文。そして申し訳程度の考察。
 そのまとめの文がまた、まったく前の内容と一致していない。
 提出しないよりは、した方が一点くらいはマシになるだろうという、形だけのレポートの典型的なやつだ。
 俺はこれみよがしに深い溜息をついてみせた。
「まったく……お前は相変わらずだな……日本語はもう少し解るように書かんか、蓬莱寺」
「なっ……なんだとッ、十分読めるだろッ」
「一応文字としては読めはするが、内容はさっぱりだ」
 文字としては、というところにわざと強くアクセントをおく。
「うるッせえな。いいだろ、なんでも良いって言ったのはテメーだろッ」
 蓬莱寺は不機嫌な顔になり、吐き捨てるようにそう云った。
「まあそうだがな……」
 俺は苦笑して、あごをなでた。
「いい加減『先生』という単語も覚えたらどうだ?」
 美人の(こういう条件がつくあたりがまた呆れるのだが)女性教師に限り、この男の愛想がのしつきで配られているのを、俺は知っている。
 だが蓬莱寺はこの言葉には、だんまりと決めているようだ。
 別にこれ以上説教するほどのことでもないか……
 俺はレポートを受取り机に仕舞いつつも、
「今回は一応受け取るが、今度写すときは、せめて文体くらいは整えてこい。異様に丁寧な文体とそうでないもの混じっているのはあきらかに不自然だぞ」
 と念を押すことは忘れない。
「はいはいはい」
 反省の色など皆無のそんな返事をして蓬莱寺が出て行こうとした時、俺の嗅覚がふと血の匂いをかぎつけた。
 しかもこの血の匂いは……
「それ」に気付き、俺の表情は険しいもになった。
「おい蓬莱寺。おまえ、どこか怪我をしているのか」
「怪我? んだよ急に……んなのねェよ。見りゃ分かるだろ」
 じゃあ何だ、この血の匂いは。
 ・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・
 この血の匂いは……あきらかに人間のそれとは違うものだ。
 この台詞は口に出さずに、厳しい目線を蓬莱寺と合わせた。
「……おまえ、何かしただろう、何だ?」
「べ……べつに……部活しかしてねェよッ」
 つと蓬莱寺が俺から視線をそらして、声のトーンを低くした。
 この男のいいところといえば、この、嘘がつけない体質だろう。
 心臓の鼓動がわずかに上昇する。
 しばらくの間、沈黙が降りた。
 それからまた口を開いたのは、俺の方だった。
「……旧校舎、か?」
 この単語に、相手からは僅かな反応があった。
 この真神学園の校舎の近くには、古い旧校舎が建っている。
 その奥深くには……獣が住む。
 そう……この俺と同じ血を持つ輩が、今なお人目に触れることなく、放浪いつづけている場所だ――。
「何をしている?」
「何もしてねェって云ってるだろッ」
「待て――」
 怒鳴って出て行こうとする蓬莱寺の腕を、俺はつかんだ。
 そのとたん、さらに血の濃密な匂いが、鼻孔から頭の芯にツンとつきぬけた。
 力を意図的に押さえるのをしくじったと思ったときは、もう遅かった。
「っ……」
 満月で増幅している嗅覚に、魔物の血の匂いが絡み付いてくる。
 脳髄の深いところで、共鳴が始まった。
 からだ全体の血が音叉にでもなったように、その匂いに震えた。
 心臓は全開した蛇口のように、血液を急速に押し出されていく。
 ハンマーで側頭部部を殴られたように、ひどい頭痛が襲ってくる。
 おそろしく長い時間が過ぎたと思ったが、実際はコンマ一秒にも満たない出来事だ。
「離せって……」
 蓬莱寺の腕がスローモーションビデオを見るようにコマ送りで近づいてきて、俺の手を振り払った。
 それ自体は蚊に刺されたほどの刺激でもなかったのだが、俺は俺自身の身体の奥の変調に耐えられず、不覚にもよろめき、床に膝をついた。
 くそ……まずいことになった。
「あ、ヤバ……っと……そんなに力いれたつもりじゃなかったんだけどな……」
 蓬莱寺がそう言い、俺に手をのばしてくる。
 まったく、こいつは……いらないところで気をまわすな……
 なんとかその衝動を押さえつけようと、俺は格闘した。
 脂汗が、額をつたってぽたりと床に落ちる。
「犬神、おいッ、大丈夫かよ」
 肩に触れたその手を、俺は払いのけた。
「大丈夫だ。……いいからもう行け」
「ってよ……大丈夫じゃねーだろ。真っ青だぜ、顔……どっか悪いのか……」
 蓬莱寺がしゃがみこみ、顔をのぞき込んだ。
 そのとたん。
 血が……さらに濃くなった血の匂いが、身体に流れ込んだ。
 理性の限界だ。
 俺は意識のどこかで、ヒューズが切れた音を聞く。
 自動人形のように、身体が動いた。
 俺の腕が蓬莱寺の肩をつかむ。
 その顔が、苦痛で歪んだ。
「いっ……て」
 彼の持っていた木刀が、カランと床に転がった。
「なにしゃがるッ、テメェ!」
 相手が怒声を発したが、俺は無言のままだった。
 この時期の力の恐ろしさは、自分自身がよく分かっている。
 たとえどれほどの力があろうと……蓬莱寺が人間である限り、俺に敵うはずがない。
 ここ数十年、押さえつづけてきたもの……本能から生まれるサディスティックな快楽が、俺の脳を満たしていく。
 そのまま、蓬莱寺の身体を投げるようにして床に押し倒した。
「ツ……」
 その苦痛にあえぐ声に、歓喜が波のように押し寄せてくる。
 相手の抵抗を封じ込め、魔物の返り血の残滓の残る肌に舌を這わせた。

 Luna、という言葉が月を表すラテン語だというくらいは誰でも知っていることだろう。
 そして、この言葉が、英語のLunatic(狂気の)やLunacy(狂気)の語源となっていることも。
 月が人間の身体に与える影響については、殺人事件の増加や体内リズムや自然現象など、実にさまざまな報告がある。
 人間の身体を構成している物質の八割は水分だ。
 この水分が、海の水のように月の引力を受けて満潮になったり干潮になったりするため、人間の心や身体に変化を引き起こすと唱えた者もいる。
 事実かどうかは不明だが、多分にこれは通説として世の中に流布しているのではないだろうか。
 満月の夜には、狂気が宿り易い……と。
 そう……ただ、堕ちていくだけの狂気が――。
 猛った己を一度放ったあと、跳ね上がった息の下で、俺はただ呆然としていた。
 コトの途中の記憶は、ひどく断片的だった。
 ただ、おそろしく鮮やかな開放感と、それに付随する快楽の尾が、俺という器のなかで、あふれそうな波をつくっていた。
 禁忌を犯してしまったとか、なんらかの道に外れるような行為だとか、頭のどこかで咎めるようなことを考えてはみたが、それを言うなればすでに俺自身の存在すら否定しなくてはいけないだろう。
 そんな言葉で今更罪悪感を抱くほど、俺はすでに若くも、純粋でもなかった。
 後悔や絶望や罪悪感といったものは、その言葉の抜け殻だけが、ただの記号として脳にこびりついているだけだ。
 何時の間にか、準備室の窓の外は暗く、溜息のように儚げな月光が、床に落ちている。
 そういえば俺は電気すら点けていなかった。
 この体質のせいで、暗闇が気にならないせいか、よく忘れる。
「蓬莱寺……」
 相手の名前を、小さく呼んだ。
 意識があるのかどうかを確かめるために頬に触れると、相手の瞼がゆっくりと開いた。
 涙で潤んだ瞳が数秒、虚空をさ迷う。
「……大丈夫か……」
 視線が合う。
 ばらけた前髪の間から、こちらへ向けられた瞳が、すうっと細められた。
 仄赤い唇が、わずかに開いて吊り上る。
 笑ったのだ、と気付くのに、いくばくかの時間を要した。
 若くひきしまった腕が伸びてきて、俺の首に絡まる。
「も……っと……」
 すでに正気を無くしているのだろうか。
 俺の……人でないこの俺の体液と、彼の浴びた魔物の返り血……この二つが交じり合って作用して、なにかしらの影響を与えたとしか説明がつかない。
 快楽の美酒に狂った男が懇願するさまを、俺はひどく困惑して見つめ、だが頭のどこかではそんな気持ちとはうらはらな欲望の炎が噴き出す音を聞く。
 色素の薄い赤茶の瞳が、淫らな欲望をたたえて見つめている。
 俺はその目に魅せられ、吸い込まれそうになる。
 現実には見たことはないが、淫魔とはこういうものかもしれないと、ふとそんなことを思った。
「くれよ……いぬ……が、み……」
 掠れた声で囁かれ、噛み付くように唇をふさがれた。
 出口を渇望して止まぬ力を弄ぶ俺が、それを拒めるはずがない。
 求める舌に応じて、愛撫を返す。
 首筋を撫で、蓬莱寺の肩口を軽く噛み、組み敷いた男の肌を傷つける。
 うっすらと赤い血が滲む程度に、俺は牙を滑らせる。
 蓬莱寺が低くうめいた。
 爪の感触が背中にあった。
 撫でるように歯を立てたので、痛みは感じないはずだ。……痛みより、多分快楽の方が多いだろう。
 月が浴びせる青白い光に酔いながら、俺はふたたび理性の殻を脱ぎ捨てた。

 身体のけだるさに負けて目を瞑っていたのは、だが少しの間だけだった。
 時間にすれば、三十分にも満たないだろう。
 体力が回復するのは、それだけの時間があれば十分だった。
 来客用のソファの上には、蓬莱寺の寝顔がある。
 満月で満ち、器に収まらなかった俺のこの「力」は、その幾分かを出したおかげで、今はどうにか、縁の中に収まっていた。
 意図的に思考を排除したまま、俺は情事の後を機械的に片付けた。
 何時もの通りのくたびれた白衣を羽織り、眼鏡を掛け、タバコを咥える。
 口の中に残っていた彼の残滓が、その炎に燃えて溶け、自分の臓腑にしみわたっていくような、奇妙な感じを覚えた。
 柄にもなく、手が震えている……俺は思わず俺自身を笑った。
 ふと、外から誰かの足音が聞こえた。
 リノリウムの床をゆっくりと歩く、革靴の硬質な音。
 扉を半開きにして外を見ると、懐中電灯の丸い明かりが、教室の隅を照らし出して消えていくのが見える。
 夜間の学校に詰めている警備員の見回りだ。
 準備室の明かりが消えているため、まだここに人が残っていることには気付かずに、その人影は階段の上へ消えていった。
 時刻は既に九時前。
 校舎の鍵のスペアは持っていたが、そろそろ校内からは出た方が良いだろうと、俺は判断した。
 蓬莱寺をどうするか。
 家まで送っていった方がいいだろうか。
 まったく……こんな現実問題を解決するためには、何時も面倒で億劫なことばかりだ。
 何十年も経歴を偽り、社会生活に溶け込んでいる振りを装うのも、止めようと何度思ったことか。
 だが、その度に俺をここに引き止めている存在の大きさに、敗北ばかりしているのだが……。
 棚の端から名簿を引っ張り出してきて、蓬莱寺の家の住所を書き留める。
 それから眠っている男を担ぎ上げようとソファに膝を載せる。  と、その振動で蓬莱寺が目を開けた。
 多少寝ぼけてはいるが、顔色と気を読む限りでは、どうやら正気に戻っているようだ。
「歩けるか」
 と手を伸ばすと、それを叩かれ、胸座を鷲掴みにされた。
「おいおい……」
 俺は、ずれた眼鏡を人差し指で直し、咥えていた煙草を手に移す。
「服が伸びるだろう。手を放せ」
 わざと間のびした声でそう応対すると、
「……この……ふざけんなよテメェッ」
 と、蓬莱寺が噛み付く。
 俺はこれみよがしに溜息をついてみせ、彼の手を振り払った。
「お前も楽しんだだろう……同罪だ」
 全部を覚えていなくても、自分と俺が何をしたかくらいは解っているはずだ。
「……」
 答えがない。
「どうした? 俺が一々思い出させてやらないと駄目なのか」
 意図して何の感情も込めず、突き放すようにそう言うと、蓬莱寺の顔が怒りと羞恥で一瞬にして火照った。
 激しく熱い感情が、彼の目を支配するのを見る。
 たとえるなら……夏の空で弾ける花火のような、煌びやかな極彩色の炎の乱舞。
 ……綺麗なもんだ……
 その鮮やかな色に、俺はしばらくの間、見惚れた。
 もう何年も……いや、ひょっとしたら何十年も前に……この身を切り裂き、血を流し、どうにか忘れ去り捨て去ったものを、神はどうして無慈悲にも、再び俺の目の前に突き付けてくるのか。
 だが、この熱と炎に焼かれながら、俺は奇妙な興奮と感動を覚えているのも真実だった。
 そしてそのことに気付き、心密かに動揺する。
 木刀を取り上げた蓬莱寺が、そのまま廊下に飛び出そうとするのを、その感情とはうらはらな声で、「無理するな。そこまで送っていくぞ」と引き止めた。
 はたから見れば、この時の俺は呆れるくらい無神経な人間に写っただろう。
 そしてそんな俺の言葉に対する蓬莱寺の返事は、予想と違いなく
「うるせぇ!」
 の一言だった。
 蓬莱寺を追いかけるべきかどうか一瞬迷って……止める。
 今にも駆け出しそうな両足を押さえるために、紫煙を吸い込んで空気に吐き出し、また吸い込むという作業を俺は何度か繰り返した。
 俺のような異端の力をもった者と人間とでは、どこまで行こうが平行線で、決して交わるものではない。
 自分自身に何十回となく云って聞かせた、その言葉を暗示のように、声には出さずに繰り返す。
 狂気という言葉で済ませられるなら、それでいい。
 これ以上は……進めない……進むべきではない。
 この狂気から……もしも何かが生まれるとしたら、それは多分、暗くて底がなく……救いようのないものだけだ。
 なあ、蓬莱寺……。
 すべては、月のみせた幻だ……そう思え。
 俺は瞳をとじると、声をだすことなく、そう、唇を振るわせた。


京一は高校2年デス BY ナツ

Web初掲載:1999/10/20
Web再掲載:2000/12/01



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