午後一番の授業というのは、居眠りとサボリの確率が最も高くなる時間である。
俺自身も、仕事が入っていない時には我さきに昼寝へとしけこむタイプなので、生徒の気持ちは分からないでもない。
その日の2年B組の生物の授業も、ちょうど午後一の時間割だった。
眠気で重くなってくる瞼を持ち上げながら、出欠をとるために名簿を開く。
浜口、藤田……と順調に返事が返ったところで、次の名前を口にするのに、ほんの一瞬、間があいた。
「……蓬莱寺」
案の定、返事はない。
「蓬莱寺!」
声をワントーン上げて呼び、俺は教室内をぐるりと見渡した。
それから、座席表に目を落して名前を探す。
蓬莱寺の席は廊下側から二列目、後ろから三番目の位置だった。
が、そこには、やはり主の姿はない。
「蓬莱寺はどうした?」
出席簿に×印をつけながら、他の教科の履歴を見返すと、例の日から今日までの一週間、狙いすましたように、俺の授業だけを狙って、三回連続欠席している。
いままでは、授業中の居眠りが主で、サボるにしてもこんな回数ではなかったし、それに何より、ここ一週間というもの、俺は校内でも蓬莱寺を見つけられなかった。
会って云いたいことがあるので、普段生徒が好んでたむろっている場所をうろついてみるのだが、一向に姿を見ないのだ。
それほど広くない校内だ。普通に歩いていても数日に一回は顔を見る。
それなのに、特定人物を探していてうろつき回って、なお会えないところを見ると、どうやら俺は、徹底的に蓬莱寺に避けられているらしい。
「早退ではないんだな?」
誰にともなく問うと、醍醐雄矢が答えを返した。
「昼休みまでは見たんですが……」
「そうか……」
蓬莱寺の親友の醍醐が知らないとすると、他の人間が居場所を知っているとは思えがたい。
……まあ、やつが俺を避ける気持ちは解らんでもないが……
だが、そうとはいえ、さすがにこれ以上授業をエスケープさせておく訳にもいくまい。
下手をすれば留年ということもありえる。
「蓬莱寺を見たら放課後生物準備室に来るように伝えてくれ」
俺はそういって、教科書を開いて黒板に向かい、チョークを手に取った。
「授業を始める」
*
その日の放課後一時間が過ぎても、結局蓬莱寺は準備室に現れなかった。
担任から情報を得た分では、何時もと変わりなくホームルームには出ていたらしい。
だとすると、醍醐かクラスメイトから俺の伝言は伝わっているだろう。
相手がここまで意地になっているとするなら、呼び出しの校内放送をかけても無駄にちがいない。
まあ、ある程度こうなることは予測はついたが……
あの日から気にかかることがある。
これ以上放っておくのは、俺の精神安定上良くない。
吸いかけのタバコを揉み消し、出がらしの茶を飲み干すと、俺は立ち上がった。
まず最初に、蓬莱寺の所属している剣道部のある武道場へ向かう。
体育館のそばにある古い建物で、柔道部と兼用になっている所だ。
開け放された入り口から中に入り、エイヤー! だのとりゃあ! だの威勢のいい掛け声を聞きながら周囲を見渡す。
こういう、いかにも学生らしい風景をみていると、俺は不思議と疲れを覚える。
彼らの持つ純粋さや明るさといった陽の世界に、俺の陰の心が順応できないせいなのかも知れない。
あるいは、ただの嫉妬か……。
ひととおり中を見渡したが、蓬莱寺らしき生徒は見当たらなかった。
「どうしたんですか、犬神先生」
武道場にまったく似つかわしくない白衣姿の俺は目立っていたのだろう。教え子の一人がさっそく声を掛けてきた。
「2年の蓬莱寺を探しているんだが……」
「京一を?」
また何かやらかしたな、あいつとでも云いたげな表情になったが、三年はそのことには何も触れずに、周りの部員たちを振り返った。
「よお、京一のヤロー、顔だしてたっけ?」
「そういや、オレ、午後イチの授業ん時に部室で寝てるの見たなぁ」
「掃除する時にゃ居なかったぜ。名札も裏がえってるし……今日も来てないんじゃないっすか」
次々と部員からそんな答えが返って来て、その三年はチッ、と舌打ちした。
「あいつに鍵もたすと、ほんっとロクなことしねぇな……ったく」
そうぼやきつつも、特に蓬莱寺を咎めるような口調ではなかった。
むしろ、彼のすることを楽しんでいるようだ。
「すみません先生、また来てないみたいです」
と三年は俺に笑った。
「また、か」
つられて俺も苦笑してしまう。
「もし見掛けたら、部活に出るように先生からも言ってやってください。今週末には対抗戦があるっていうのに、ろくに練習にも来ないんですよ、あいつ……それでいて余裕で勝つんだからまた憎らしいんですけどね」
サボってばかりいるというのに、先輩・後輩からは随分と慕われているようだ。
羨ましいキャラクターというべきか……。
「ああ、伝えとくよ。それと、蓬莱寺から部室の鍵は取り上げるんだな」
と答えて外に出た。
後は屋上か、体育館裏か……
と蓬莱寺がサボっていそうな場所を思い描きながら運動場を横切っていると、
「犬神先生」
背後から声を掛けられた。
振り返ると、二年生の遠野杏子という女生徒だ。
「どうしたんですか? 先生が運動場にいるなんて珍しいですよね」
トレードマークになっているコンパクトカメラを手に持ち、にっこりと笑われた。
彼女は新聞部の部長兼部員である。『真神新聞』なるものを定期的に編集・発行していて、近隣の高校ではかなりの有名人だ。
その新聞のネタのために、ゴシップを探して都内中を徘徊し、トラブルと見ては足を突っ込み、その都度シロウト探偵はだしの調査や尾行や変装をこなしているらしい。とにかくパワフルな女生徒だ。
あちこち出歩いている遠野だ。もしかしたら知っているかもしれないと、蓬莱寺を探していることを伝えると、
「えっ!? また何かやらかしたんですか、あのバカ」
とここぞとばかりにネタを期待した熱い眼差して見つめられ、さすがに俺も少々うろたえた。
「ああ……ここの所俺の授業に出てないんでな」
「なんだ、またサボリなんですか……そろそろ叩けばホコリの出る時期だと思ったんだけどなァ」
胸の前で組んだ指が、せわしなく動く。
「悔しそうだな」
「先生は知らないんですか? 京一って、顔だけは無駄にいいから、真神新聞に載せると他校の女生徒とか下級生とかによく売れるんですよねぇ……だから赤字解消にぱーっと一発……」
と遠野が言った瞬間、
「おいコラ! ムダに顔がいいってななんだ、アン子ッ」
と、約二十メートルばかり離れている校門の方から、蓬莱寺の大声が響いた。
どこからか全速力で走ってきたらしく、肩で息をしている。
「きゃ……何よ、京一……アンタ一体どこから涌いて出てきたのよっ?」
「人をゴキブリみてーに言うな! 俺はテメーを探してたんだよッ! オマエ、俺の写真を一枚五十円で他校のヤツに売りつけてただろっ」
「……やだ。もう耳に入ったの!? さすが……カンだけの男」
「余計な一言をいちいちいちいち付け足してんじゃねェ! いいかッ、 五十円つー安い値段も気に食わねぇがッ、女だけならともかく、隣の男子校の奴にまで売りつけるたぁどういうことだッ!!」
「男子校……? ああ……そういえばあんたのシャワーシーンとか着替えシーンなんかを大量に買っていったのが、いたような、いなかったような……」
「と・ぼ・け・る・なァァッ!! ネタァあがってんだよッ!」
「いいじゃない。結構レベル高かったわよ、アノヒトたち」
複数か……
「レベルがどうとかいう問題じゃねえ!!!! ヤローの定期入れなんかにハートマークつきで写真飾られた俺の身にもなってみやがれッ!」
「なによ、モテてていいじゃない。よっ、男前っ!」
「いやぁそれほどでも……って、嬉しいわけねぇだろォがッ! 今日という今日は……マジぶっ殺すッ! そこを動くなよアン子!」
木刀を突き出し、蓬莱寺が吠えた。
……やれやれ。
動くなといわれて素直に動かない人間がいるわけないだろう、蓬莱寺。
「あっ、そうそう、犬神先生、京一を探してたんですよね! ちょうどよかったわ。あの馬鹿、先生に引き渡しますね。そういうことで、じゃっ!」
遠野は都合のいいことを云いながら、その場からダッシュで逃げ出した。
「テッメェェェ! 待ちやがれッ」
どうやらこの男は、完璧に俺の姿など視界から消し去っているようだな。
俺は蓬莱寺が通り過ぎようとする瞬間を狙いすまして、自分の足を前に突き出した。
「うわっ……」
それに見事に引っかかり、地面に転びそうになった蓬莱寺を、右手一本で受け止める。
「なにしやがんだ犬神ッ! 危ねぇだろーがっ」
「怒鳴らんとも聞こえる」
「てめぇには用はねぇんだっ、離せ!」
「残念だが、こっちには用がある。いいから来い」
俺は遠野への罵倒を喚きちらす蓬莱寺の襟首をつかみ、生物準備室まで引きずっていった。
*
そういう訳で、今現在、俺の目の前には、ひどく不機嫌な顔の蓬莱寺が座っている。
俺は煎れたての茶を注いだ湯飲みを、蓬莱寺の前に置いた。
「茶受けはないぞ」
「いらねーよ」
俺が云うと、即座にそう毒づく。
「大体、こっちはテメーの顔なんざ見たくねぇんだよ。用事ならさっさと終わらせろ」
自分がお世辞にも人気のある教師だとは思ったことなどないが、それを反省して好かれる努力も放棄している。そのためか、誹謗中傷やお礼参りの類には事欠かない。
今更生徒の不機嫌の一つや二つでどうにかなるような神経はしていないが、正直、そろそろこの男の怒り顔と寝顔以外の顔も一回くらいは拝んでみたいものだな。
そう思っている自分にふと気付き、そのあまありの願いのささやかさに、苦い笑いがこぼれた。
「寝ていてかまわんから授業には出ろ」
「……」
返事はなく、そのかわりに、蓬莱寺はむくれてそっぽを向く。
「そうか……お前が喉から手が出るほど留年を希望しているとは知らなかったな」
「ばっ……んな訳あるか!……解ったよ、出りゃいいんだろ……いちいちムカツク言い方だぜ……ったく」
「それと……」
俺は机の引き出しから、既に黄色く変色した名刺を一枚取り出し、蓬莱寺の前に置いた。
「ここに行って診てもらって来い。地図は裏に刷ってある」
この名刺に書かれてあるのは、俺の古い馴染みが経営している病院で、産婦人科を専門にはしているが、霊的な治療を施すことにかけては、都内屈指の病院である。
≪気≫は普通の人間には見ることも、感じることも出来ないが、万物を形作る生物を形作る根本のものだ。
風雨、露雷、日月、星辰、禽獣、草木、山川、土石。この世のありとあらゆる物は≪気≫から成る。
この≪気≫が暗く重くなるのを≪陰≫、反対に明るく軽く澄むのを≪陽≫という。
≪陰≫と≪陽≫の気が上手くバランスを取り合うことで、ヒトの精神や身体は正常を保っているのだ。
この≪気≫のバランスが≪陰≫に傾いた時……ヒトは妖に魅入られやすい。
俺自身も気を読むくらいの力はあるが、その範囲は限られている。
あの日の出来事から、蓬莱寺の身体に……外側では決して見えない……気のバランスに変化があるのではないのかと、ずっと気になっていたのだ。
「俺の名前を出せば解る。金はいらん」
蓬莱寺の目線が、名刺の文字の上を滑ったと思ったとたん、
「さ、桜ヶ丘中央病院!?」
突然、そう叫ぶ。
この反応が返ってくるということは……
「なんだ、知ってるのか……なら話がはやいな」
「……って……だ、誰が行くってんだ、んなオソロシイトコ」
「大袈裟だな……命まで奪われることはないから安心しろ」
取って食われる、ということはあるかも知れないが。
「とにかくッ、俺は何ともねーんだからよ、別にてめーがどうこう責任感じる必要ねーだろ」
用事はもう済んだだろ、と立ち上がろうとする蓬莱寺を、引き止める。
「念のためだ……いいから行って来い」
「それが嫌だっつってんだろっ! じゃあなッ」
しょうがない。
不本意ではあったが、ここはこの方法しかないようだ。
「蓬莱寺」
名前を読んで振り返った所で、腕を掴んだ。
力まかせにぐいと引き寄せる。そのまま、相手に反撃を一切与えない早さで、経脈を流れる気の一筋を断ち切った。
経脈というのはヒトの体内を流れる気の道筋のことで、ヒトの体内には十四本存在する。
風水でいえば、経脈は≪龍脈≫……もっとも力の集まる場所……にあたるものだ。
その流れを意図的に断ち切ればどうなるか……。
「ッ……」
声を上げる間もなく蓬莱寺は意識を失って倒れた。
その身体を受け止め、俺はそのまま肩に担ぎ上げる。
断ち切った気は自然に復活するし、後遺症もないのだが、これで当分は目を覚まさないだろう。
「まったく……世話のやけるやつだ……」
溜息をつきながら、俺は呟き顔を上げると、棚のガラスに写った自分の顔と目が合う。
そこに写っているのは、なんとも表現しようのない、中途半端な表情を浮かべた一人の中年男の姿だった。
たかが一人の……自分の手に余る生徒に振り回されている自分への苛立ちと不安。
久しぶりに聞く、日常という分厚く変化のない世界の殻を破る音を聞く快感と期待。
そんなものが水と油のようにたがいに攻めぎあい、場所を譲らず、困惑したように張り付いている。
『俺は、一体どうしたいのか』
その問いかけに答えを出すには……俺自身の覚悟を決めるための時間が、もう少し必要だった。
*
診察室の扉を開けて出てきた岩山たか子は、俺の記憶の中の映像より、随分とグラマーに成長していた。
彼女が一歩踏み出すたびに、その重みでミシリミシリと床が揺れ、振動が身体に響く。まさしく名前の通り、『山』のようである。
たか子は、この桜ヶ丘病院の現院長を勤めている。霊的な治療に関してのエキスパートだ。
霊的といっても、もちろんイタコや霊媒師といったことをするのではない。≪気≫を読み、その力を引きだすことのできる腕の持ち主で、彼女のおかげで命をとりとめた者は数多いだろう。
このたか子と会うのも、かれこれ十数年ぶりであろうか。
十年という月日は、俺にとってはほんの瞬きほどの時間だが、人間にとっては一生の約十分の一以上にあたる年月だ。
人の時間は、激流のように移ろい過ぎてゆく。
だが、その流れの中に身を置いているというのに、なおも輝きを失わず、あの頃のままに澄んでいるたか子の瞳を見、俺はひどく懐しい気持ちになった。
こちらに歩いてきたたか子は、ソファに座っている俺の姿を認めると、驚きで目を見開き、それからほほう、と感嘆して笑顔になった。
「これはまた、珍しい客だ」
「久しぶり」
吸いかけの煙草を灰皿にねじ込み、俺も笑った。
「元気そうで安心したよ」
「お前の方は……相変わらずなようだね」
「あぁ……」
「で……何の用なんだい? お前さんがここを訪ねて来るなんて……何か……のっぴきならないことでもあったのかね」
親しみを込めた笑顔はすぐに引っ込み、たか子の表情が、命を預かる医師のそれに変わった。
前に俺がここに駆け込んだ時の事でも思い出したのだろうか。
俺は「そんなに大袈裟なことじゃないさ」と答え、待合室のソファに横にしておいた蓬莱寺を指差した。
その指の先に視線を向けたたか子が、おや、と声をあげる。
「京一じゃないか」
「何だ……知っているのか?」
訊ねると、たか子は彼女独特の、喉がひきつったような笑い声を上げた。
「京士朗の弟子さ。昔はあの男と一緒によくウチに来ていたものだ」
「神夷の……?」
思ってもみなかった名前が出て、俺は唖然とする。
神夷も……たか子と同じく、俺の知り合いだ。やはり、最後に会ったのは十数年前のことになる。
「弟子を律義に育てるようなタイプの男ではないと思っていたんだがな」
無論、俺の知っているのは、学生服に身を包んだ生意気盛りの少年の頃の神夷だけなのだが。
「たとえ望まずとも、己の守るべきもののために、武器を持って闘わねばならない時もある。そのために、この技を生かせておきたい……とか云っておったな……あの男も、あれからいろいろと思うことがあったのだろう」
たとえ肉体が滅びても、技は受け継ぐものが居る限り、滅ぶことなく生き続ける。
人はそうして、永遠の命を紡いでいるのかもしれない。
「……経脈が少し乱れているようだが……」
蓬莱寺の手首と喉元の搏動を計り終えると、たか子が云った。
「ああ、それは俺の所為だ」
「お前の?」
「まあ……いろいろあってな……ちょっと手荒なことをした。気になる所はそこだけか?」
「いや、特にないが……なんだい、他に……何か気になることでもあるような言い方をするね」
異常は見られないというので、俺は一応は安心したが、今度はたか子が不審そうな視線をなげてくる。
「いや……説明は、し辛いんだが……」
俺は言葉を濁した。
「まあ、無理には聞かないよ……ただ……」
「何だ……?」
「……いや……些細なことだが……」
「何だ」
気になることがあるなら、云ってくれと相手に詰め寄ろうとした時、ソファの上で小さく蓬莱寺が身じろいだ。
「ん……」
閉じていた瞼が痙攣し、静かに開く。
焦点の定まらぬ瞳が、しばしの間、虚空をさまよった。
たか子が、蓬莱寺の頬を、軽く叩いて、目線を自分へと向ける。
「気付いたようだね」
蓬莱寺の顔を覗き込み、たか子がにっこりと笑った。
「うわぁっ」
待合室に悲鳴が響く。
「思ったより元気じゃないか」
「だっ……なッッ……」
蓬莱寺はどうやら逃げ出したいらしく手足をバタバタさせるのだが、身体の上にのしかかるような格好でいるたか子の巨体にはばまれて、身動きがとれない。
寝起きに、突然これはきつすぎたか。
「静かにおし。まあ、そこまで元気なら無駄かもしれんが、一応、治療はしとこうかね」
たか子の腕が蓬莱寺の首に巻き付き、ぐいと締め上げた。
まるで柔道かプロレスで見るようなような落し技だ。
こういった技は、腕の入る場所がきちんとしていれば眠るように落ちることができて気持ち良いが、少し場所をずらしたとたん、かなりの痛さになる……ものらしい。
「いってぇぇぇっ!」
「情けない声だすんじゃないよ、まったく」
ダメ押しとばかりにもう一度腕に力を入れて、たか子が腕を放した。
治療が終わっても、蓬莱寺はしばらくの間放心したようにソファの上に寝転んだままだった。
……外側を眺める限りでは、先ほどよりも生気がないように見える。
それからふと気付いたようにこちらに顔を向けた。
とたん、蓬莱寺は弾けるように起き上がる。
どうやら、ようやく記憶が繋がったようだ。
「い、犬神ッ、まさか……」
すごい勢いで睨まれ、俺は肩をすくめた。
「……何も言ってないぞ」
そこに、たか子の言葉が飛んだ。
「京一、お前は自分の教師を呼び捨てにしているのか」
一瞬まずい、という顔になったが、そこが蓬莱寺の調子のいいところで、
「やだなぁ僕がそんなことするわけないじゃないですか。たか子センセの聞き違いです。ね、犬神センセー」
と笑って誤魔化す。
敬語に『僕』ときたか……言葉使いの豹変ぶりに呆れながら、俺は敢えて蓬莱寺の言葉を肯定も否定もしない。
「どうだかね……」
と追求しようとするたか子に、
「へへへ。疑り深いなァ、センセーは」
と愛想を振り撒く。
それから逃げるように玄関口までにじり寄り、
「じゃあ僕、そろそろ失礼します。ありがとうございましたっ」
とそのまま靴に足を突っ込み、蓬莱寺はさっさと外へ出て行く。
だが、戸口の前でちゃんとお辞宜することを忘れないあたり、どうやら、この病院の中ではたか子に嫌というほど躾られたんだろう。
「おい、待て……ったく」
蓬莱寺の後を追うため、俺も慌ててスリッパから靴に履きかえ、それから俺はふと思い出してたか子を振り返った。
「そういえば、さっき気になることがあると云っていたのは何だったんだ?」
「ん……ああ……いや……あれはわしの思い過ごしだろうから、気にするほどでもないよ……ただ……もし、もしも、何かあったら、また来てくれ」
「そうか……」
端切れの悪い事が気にはなるが、たか子がそう云うなら、追求はしない。
俺が外へ出ようとしたところで、今度はたか子から声がかかった。
「犬神……お前さんは、その……大丈夫だろうね?」
「ああ。君の方こそ、身体は大事にしてくれよ」
俺は答え、桜ヶ丘中央病院を後にした。
*
それから三週間が過ぎた。
俺には、いつも通りのたいくつな日常が戻って来ている。
蓬莱寺も授業には一応出席するようになり、特に個人的な会話をすることもない。
世界を変えるには、多大な力がいる。
今更ながら、俺はそのことを思い知った。
果てることのない時を生きぬくために、俺は眼を瞑り、そしてこの場所に留まることを選んだ。
……言葉にすれば、たったそれだけのことだ。
そして今日は、満月。
身体の調子は問題ないが、全く気を抜けないのが辛いところだ。
二年B組の、午後一番の授業時間だった。
教室に入り出席簿を開くと、ふと安らかな寝息が耳に届く。
まさかと思って見てみると、机に突っ伏して夢の中にいる生徒は、俺の予想と外れることなく、蓬莱寺京一だった。
昼休みからずっと寝つづけているのか、机の上には教科書すら出してはいない。
中央の前から二番目の席で、堂々と寝ているのは、いっそすがすがしいと云うべきか。
俺はその頭を、持っていた教科書で叩いた。
「てっ……」
叩かれた額をさすりながら、蓬莱寺が頭を起こした。
「授業は始まってるぞ」
「犬神……?」
呟いて顔を上げた蓬莱寺と、目があった。
そのとたん蓬莱寺の頬が、突然カッと紅く火照る。
……?
妙な反応だなと思っていると、突然蓬莱寺がガタリと席を立った。
「どうした?」
「す……んません。ちょっと気分悪いんで」
いつになくしおらしいのも気味が悪い。
「風邪か?」
「……みたいです」
熱でもあるのかと、蓬莱寺の額に手を置いたとたん、彼の身体がぴくりと反応するのが分かる。
ふらりと身体が揺れたので、あわてて支えた。
特に体温が高い訳ではないようだが、確かに、いつもとは様子が違う。
「……仮病じゃないようだな」
俺は教室を見回した。
「保健委員は……」
そう呼ぶ俺の言葉を、
「一人で大丈夫です」
と蓬莱寺が遮り、そのまま廊下へ出て行く。
普通なら肌身離さず持ち歩く木刀も、机の横にたてかけたままだ。
一体どうしたのかと不安にはなるが、それで授業を中断するわけにもいかない。
俺はざわめいた室内を静めて、ふたたび出席簿を開いた。
放課後。
職員室に向かう廊下を歩いていると、反対側から、醍醐と歩く蓬莱寺の姿が見えた。
「大体、西高のやつらにちょっと云われたくらいでカッとなるお前もお前だ。そんなに体力がありあまっているなら、レスリング部でサンドバックでも叩いてみろ」
こう言ったのは醍醐雄矢だ。
確か、彼はレスリング部に所属していた。
「へっ。あんな男くせーところに行ってられるかよ。俺はてめーみたいな格闘オタクじゃないっつの」
「……女子なら居るぞ」
「なにっ」
「このあいだ、一年生が一人、マネージャーで入ったんだ」
「な……なんだとぉぉぉっ!? 誰だ、そんな物好きは!?」
「物好きというのはないだろう……確か、青木ユカって名前だったな」
「あ、青木ユカちゃんッ!? って……一年A組の!?」
「さあ、クラスまでは覚えてないが……」
「あんなカワイイ後輩が……なんでそんなヤロウだらけのむさ苦しい部のマネージャーにっ。くそォッ! 俺がいるっていうのに、剣道部にだって女子マネいねぇんだぞ! この抜け駆けヤロウ!」
蓬莱寺が冗談で出した拳を、醍醐が手で受け止める。
相変わらず仲がいい。
会話に夢中で気付かなかったのだろうか、廊下の向こうに俺の姿を見て、二人の足が止まった。
「い、犬神……」
蓬莱寺と目が合ったとたん、やはり教室と同じ反応を返された。
「よぉ蓬莱寺」
俺はなるべく自然に声をかける。
「……風邪はいいのか?」
「あァ」
素っ気ないところは、変わらないか。
「まあ、たいしたことがないならいい……じゃァな」
とすれ違いながら、肩にぽんと手を置たとたん、
「っ……触んなっ」
蓬莱寺が怒鳴り、同時に、かなりの勢いで手を振り払われた。
「お、おいッ、京一、お前……」
醍醐がいさめようとすると、蓬莱寺はその言葉も聞かずに背を向けると、そのまま廊下を駆け出した。
「なんなんだ、あいつ……」
その様子を、醍醐も俺も、呆然と見送るしかない。
「……すみません、先生」
自分が悪いわけでもないのに、醍醐がそんなことを云って頭を下げる。
よくよく人間が出来ている男だ。
「……お前が謝ることでもないだろう」
俺は苦笑して、気を付けて帰れと言い残し、職員室のドアをくぐった。
それにしても、あの蓬莱寺の反応は何なのだろうか……
俺は思わず自分の手をマジマジと見つめる羽目になる。
*
仕事を終えて校門に来ると、その柱の上に、誰かが腰を下ろしているのが見えた。
「蓬莱寺……?」
鞄を膝の上に置いている。手元が寂しいのか、肩の上においてある竹刀を、トントンと規則正しく揺らしている。
時計を見ると、午後の五時を過ぎたところだ。
帰宅時間はとうに過ぎている。誰かを待っているのだろうか。
冬もそろそろ本番の十一月だ。蓬莱寺の着ている、袖を捲っている学生服では、さぞかし冷えるだろう。
風邪を引くまえに早く帰れと一声かけていくかと、俺は校門に向かう足を速めた。
「犬神」
近づいてきた俺を見つけて、蓬莱寺が門から飛び降りた。
だいぶ冷えた夕方の風が、ふわりと学生服を膨らませる。
その風に乱れた髪を掻き揚げて、蓬莱寺が呟くように言葉を発した。
「……ちょっと、つきあえよ」
さして考えることもなく、言葉が出ていた。
「……ひょっとして、俺に云ってるのか?」
「他にいねぇだろっ」
確かに、下校時刻をすぎた校門前には、俺達の他に人影はない。
「ここで話せない内容なのか?」
「……」
訪ねると、蓬莱寺はちいさく首を縦に振る。
一体どういう風のふきまわしなのだろうと思いながら、俺はポケットに手を突っ込み、自分の車の鍵を引っ張り出した。
「ここで待ってろ。車を回してくる」
それから駐車場から車を出し、校門で蓬莱寺を拾った。
だが、これから何処へいけばいいのだろうか。
前に書き留めた蓬莱寺の住所は、俺の家からもそう遠くない。
蓬莱寺の様子からして、喫茶店で気軽に話せるような話題でもないと判断した俺は、自分の家へ向かう方がいいだろうと判断した。
……それにしても、助手席に誰かが座っているというのが、あまりにも久しぶりすぎて、違和感がある。
俺は運転席の窓を開け、しんせい……愛煙している煙草……をくわえて火をつけた。
「様子が変だったな……関係ありそうだが、何だ」
「こないだ……桜ヶ丘中央病院に行っただろ……あれ……ほんとに何もなかったのか?」
……そういえば、たか子が気になることがあるようなそぶりだったが、そのことにでも関係があるのだろうか。
「お前……ひょっとしてまた……旧校舎に行ったのか?」
「行ってねぇよ。あの日はたまたま……」
そこでしまった、という顔になり、蓬莱寺はそっぽをむいた。
確かに、今彼からは魔物の匂いは全くしない。
「……そんなことは今関係ねぇだろ。ホントに、岩山センセーからは何も聞いてないんだな?」
「ああ」
俺は頷く。
交差点の信号に引っかかり、車を止める。
しばしの間、沈黙が降りた。
行き交う人々の足音と、ざわめき。
客引きをする男の甲高い声。
遠くで響くサイレン。けたたましいクラクション。
外の喧騒からほんの数センチ隔離されたこの空間に、世界が凝縮されていく感覚。
紫煙を吐き出し、俺は助手席に眼を向けた。
肘をついて、見るともなしに外に視線を這わせる蓬莱寺の瞳に、けばけばしいネオンの華が散っている。
その光は、煌びやかで美しく、だが、本人すら気付かぬ深く沈んだ所に、密やかに毒を住まわせている彼の魂の色に……よく似ていた。
蝶は、その蜜の匂いに魅きつけられ、気付かぬうちに捕らえられる。
「蓬莱寺」
俺は蓬莱寺の方に手をのばして、顎をつかんで此方に向けた。
「っ」
びくり、とその身体がはねた。
「手……離せっ……て」
俺の腕を掴み、離そうとするが、蓬莱寺の指には力がなく、かすかに震えていた。
顎に掛けた指を、唇の上に這わせる。
それだけで、相手の息が熱を帯びたのがわかった。
そこで信号が青に変わり、俺は蓬莱寺から手を放すと、ハンドルを握った。
「おまえな……俺を誘っているのか」
「だッ、誰がだっ……!」
跳ねた呼吸の下から蓬莱寺が毒づくが、それが、全く説得力のない言葉であるのは云うまでもない。
「授業中からそうだろうが」
「だから、身体が勝手に……くそッ……マジ、俺どうにかなってるんだ……」
蓬莱寺は吐き捨てるようにそう云い、頭を抱え込んだ。
「……今から桜ヶ丘に行くか?」
「冗談だろ……なんて説明すんだよ……」
「どうもこうも、素直に云えばいい」
「馬鹿ヤロウ、出来るかッ」
男と寝て、それから理由が解らないが、そいつの手が触れるだけで欲情する、か……なるほど、言葉で表すと、確かに……蓬莱寺の気持ちも解らないでもない。
「……いつからだ、それは」
「今日だけに決まってるだろ、んなのっ」
噛み付くように答えが返ってくる。
だが、蓬莱寺の≪気≫のバランスが崩れているわけではない。
ふと、俺は気付いた。
「そういえば、今日も……満月だな……」
フロントガラス越しのビルの間から、月がちらちらとその姿をみせている。
「満月……?」
「あの日も……満月だっただろう」
俺の力の周期は、月の満ち欠けと同じだ。
ひょっとして、それに関係はあるのだろうか。
「てめー、なにか仕込んでんじゃねえだろうなッ」
「何をだ……」
「俺が知るか、んなの」
「……生憎だが、そんな暇な趣味はない」
俺は蓬莱寺の戯れ言を一蹴し、車をわき道にすべらせる。
この道を真っ直ぐ走らせると、もう俺の住むアパートの駐車場だ。
大通りから入ったところにある住宅街なので、突然人通りが寂しくなる。
指定位置に車を止めると、俺はエンジンを切った。
「目の前は、俺の家だ」
蓬莱寺に告げ、俺は吸い殻を捨て、箱から、新しいしんせいを一本取り出す。
「駅は路地出て大通りを真っ直ぐ。歩いて三分くらいの距離だ」
と俺は云った。
「このまま残るか、帰るかは……お前が決めろ」
煙草に火を付け、俺は静かに……その選択を、蓬莱寺につきつけた。
「……」
蓬莱寺の眼が、強い力を帯びて俺を射抜く。
「俺が、選ぶのかよ……」
「ああ……」
俺は蓬莱寺の視線を、正面から受け止めた。
卑怯者、と、その眼が云っているような気がした。
そうだ、俺はこういう男だ。
「てめぇは、それでいいのか」
「ああ……」
俺の言葉で、お前を縛ることが出来ない。俺は、人ではないものだからという理由を楯にして、自分の欲望から目をそらす。
その代償にお互いが得るものの辛さを、俺は知っているから。
罵られることは覚悟している。理解されないことも……
だから、俺は選ばない。
選ぶのは……
紫煙を吐き出し、俺は瞳を閉じた。
どんな選択が出ようとも、後悔も懺悔もしない。
俺はそんな、弱くて卑怯な男だ……。
ただ、静かな……痛いほどの沈黙が、降りる。
そして俺は、彼の言葉を、ただ……待つしかない……
*
身体が、悴んできた。
夜風にそれほど速度はなかったが、ウィンドウを開けているせいで、体温は確実に奪われていく。
煙草を持つ手の感覚が、そろそろなくなりそうだ。
俺は根元ちかくまで灰になったしんせいを、灰皿にの上に置いた。
蓬莱寺は、動かない。
吐き出す空気が、いつのまにか白く染まっていた。
あらためて彼を見ると、学生服の袖を肘までまくりあげて着ている上に、中からは薄いTシャツ一枚といういでたちだ。この格好で十一月の寒空をうろついている神経が知れない。
俺は後ろの席にたたんで置いた自分のコートを引っ張って取ると、蓬莱寺の頭の上から被せた。
「うわツ」
突然視界を遮られた蓬莱寺は、一瞬驚いてもがいたが、すぐにコートから顔を出してこちらを睨んだ。
「んだよ、突然」
「それを着て帰れ」
と俺は答えた。
俺と蓬莱寺では身長にそう差がないから、着ていてもおかしくはないだろう。今時の高校生が喜ぶようなファッションセンスは俺にはない(このコートもだいぶ古い)ので、ひょっとしたら変に見えるかもしれないが、それでも風邪をひかれるよりはましだ。
「……このまま……帰れるかよ」
袖を通さず、蓬莱寺はコートを肩から掛けたまま、その襟元を握りしめた。
強く折れた指先が、白く変わる。
「子供じゃあるまいし、迷子にはならんだろう」
「ばっ……そーじゃねーよっ……」
ひどく小さな声で、蓬莱寺がそのセリフの後を続けた。
……なるほど、男の生理現象、というやつらしい……。
確かに、高校生という年齢を考えれば……当たり前なのかもしれない。
「さっき……満月が、どうこうっつったよな」
しばらくの間があり、蓬莱寺の口から言葉が漏れた。
「それが原因の可能性は高いだろう」
「もし、そうだとしたらよ……月イチ……だろ? 女の生理みてーなもんだよな……じゃあ」
「随分乱暴な喩えだな、それは……」
冗談で言っているのか、それとも本気なのか、この男は時々判別がつかない。
確かに、頼んでもいないのに、身体が反応する、という点では同じなのかもしれないが。
長く息を吐き出し、蓬莱寺は意を決したようにして、顔を上げた。ドアのロックを外し、車から降りる。地面に敷かれた砂利が、耳障りな音をたてた。
それから男は踊るように身体を反転させると、ドアに腕を掛けたまま腰をかがめて、こちらを睨んだ。
「最後まで、つきあえよ」
挑発的に、蓬莱寺が笑う。陽の匂いのするその眼や髪に、一瞬だけ淫靡な影が纏いつき、揺れる。
俺はその時始めて、蓬莱寺の色を認識した。
茶色が強く色素の薄い髪に、同じ色をした双眸。蛍光燈の光が落ちたその色は、燃え上がる炎に似ていた。
俺は静かに息をのんだ。
頭の芯が、なにかに打たれたように痺れている。
遠い昔……あの桜と共に封印したはずの記憶が、残像のように重なる。
それと、眼の前にいる男とは……何もかもが違う。あまりにも違いすぎて、俺自身がとまどっているくらいだ。
だが、俺は確かにそれに魅かれている。
あの時からあまりにも長く生きすぎ、俺は変わってしまったのだろうか。
人に溶け込み、本能を隠し、そして……愚かなこの人間たちのように変化してしまったのだろうか……?
記憶の中の女性(ひと)に答えを求めて問いかけるが、彼女はただ、その場所で微笑みを返すだけだ。
「へえ……何もねぇんだ」
という蓬莱寺の声で、俺ははっと我に返った。
蓬莱寺と一緒に階段を上り、それから部屋を開けて入ったんだと気付くまで、少し時間かかった。
エアコンも動いていない部屋の中は、ひどく冷えていた。
俺は家になにかを溜めこむことが嫌いだ。持ち物は最低限のものだけ。
「家に持ち帰ってねぇから、職員室の机の上が汚くなるんじゃねーのか、犬神」
「お前にだけはいわれたくないセリフだな……」
確かに、学校の俺の机はほとんど物置だ。家に置かない分、職場に溜まっていくのは仕方ないが、教科書からノートから、すべて机に突っ込み、学校に来るのは筆記具ひとつという蓬莱寺よりは、多少はマシだ。……まあ、五十歩百歩だが。
「ちっ……」
俺が何が言いたいのか察したのか(この辺の勘だけはいい)、蓬莱寺は拗ねた表情でそれだけ言って黙った。
俺にとってこの家は、人間の世界で暮らしていくために便宜的にあるだけだ。ここには、寝床さえあればそれでいい。背負うものは、真神だけで十分だ……そう、思っていた。
フローリングの部屋には、ベットがひとつ。
遮光カーテンが閉じた部屋のなかは、外からの光が漏れずに、かなりの暗さだった。
電気を点けようと手を伸ばした手を、俺は止めた。
ここで明かりを灯せば、この魔法が解けるような気がした。
目の前に立つ男は幻で……そして消えてしまうのではないか……。
それは……絶望にも似た気持ちだった。
俺は、スイッチに伸ばした指を握り、下ろした。後ろ手に、錠をかける。
「明かりは……」
と云った蓬莱寺の肩に手をのばす。
そこに触れただけで、男の神経がひくつくのを感じた。
心より先に身体が反応しているというところか。
何かを堪えるように上気した肌に、跳ね上がった息が熱い。
目には、自分の意志に反して体が訴える飢えを押さえつける方法がなく、その憤怒と困惑とが映っていた。
顎に手をあてて、俺の方を向かせる。
「……いた…いって…」
眉をしかめて、蓬莱寺が絞り出すように云った。
「んな見るなよ……視線……痛ぇよ」
部屋の闇の流れ込んだ瞳を閉じて、俺の腕を掴む。
呼吸をするために薄く開いた唇に指をあてると、俺はそのまま自分の唇を重ねて舌を絡ませる。
口の中を犯していくと、愉悦を浴びた身体は熱く火照る。
蓬莱寺は、声をだそうとした唇を噛み、我慢している。
喘ぎを堪える蓬莱寺の爪が肌に薄く食い込む。
シャツを胸元まで押し上げ、俺は指先で彼の肌をなぞった。
「っ……」
快楽に跳ねて、声が漏れる。
喘ぎに混じりって、蓬莱寺が短い罵りの言葉を吐く。
俺の手を振り解けず、この場所から逃げることができず、自分から抱かれることを選んだ己に対する憤りの言葉。
だが、俺自身もそれを望んでいた。
でなかったら、無理矢理にでも蓬莱寺を家に帰していただろう。
お互いが血を流すことになるのは、解りきったことだったのに。
――そうなることが解っていて、選択権を蓬莱寺に渡したのは、自分に対しての言訳が欲しかったという、俺のエゴイズムでしかない。
下の熱に手を伸ばすと、蓬莱寺の腕が吹っ切れたように首に巻き付いてくる。
いかれてる、と耳元で蓬莱寺が呟いた。それは誰に対しての言葉だったのだろうか。自分か、あるいは俺にか。
耳元で跳ねる息が、欲望を開放してくれと訴えている。
俺はうすく、惨忍に笑った。
手に入れた獲物を、嬲るように。
月が紡ぐ狂気の糸に巻き取られ、自分が目の前の男に縫い取られていく。
身体の奥の満たされぬ虚(うろ)を埋めるために――
そうして俺はまたひとつ、拭えない罪を重ねる。
*
滅多に鳴らない自宅の電話が鳴ったのは、それから三日後の日曜日だった。
相手は、岩山たか子。
やっぱりなという気持ちはあったのだが、やはり少しばかり動揺していたのも事実だ。
会って話がしたいというので、俺から桜ヶ丘に行こうかとも思ったが、たか子と差し向かいで室内に居るのが息苦しく思え、真神学園の屋上を指定した。
俺にとって真神学園とは、出発点であり、終着点だ。
どうしても、そこで話がしたかった。
屋上への扉を開け、落下防止の金網に背中を預け、俺は吹き消えそうな炎をだましだましして、しんせいに火をつける。
風の強い夕刻だった。
向かい合う形で立っていたたか子は、何時もと変わらない穏やかな表情だった。
しばらくの間、押し黙ったままで俺を見つめ、
「……いいのかい、それで……」
と低く、それだけを呟く。
何があったのか、どうしたのか。そんなことは一切聞かない。だが、多分……見当はついているのだろう。
俺と蓬莱寺が桜ヶ丘に来た日に、何かしらの予感はあったはずだ。
吸った煙を、ゆっくりと吐き出した。
「さあな……正直、俺にも解らん」
何をどうしたいのか、俺の方こそ、それを聞きたいくらいだった。
一体、俺は何をしているのか。何を望んでいるのか。
ひょとしたら、俺は混乱しているのかもしれない。だが、こういうときに助けを求める方法を、生憎と、俺は知らない。
「犬神……陰と陽とは互いに互いを補う関係にあるだろう。陰だけでも生きられんし、陽だけでも生きられん」
「それくらいは、知っている」
「おまえが陰なら、京一は陽だ。京一が陰であるなら、おまえは、陽」
「……何が云いたい?」
「わしは……お前さんたちは、今補完しあう関係にあると思っている。おぬしのバイオリズムの……陰気のピークと、京一の陽気のピークがぴたりと重なっている、と」
「……調べていたのか」
たか子はこくりと頷いた。
「この間……桜ヶ丘で診た時、気にはなっていたんだよ……まるで共鳴しているようにおまえと京一の気のピークが重なっておったから……ただ、それだけで……何があるとは思っていなかったのだが……」
たか子は言葉を切った。
「犬神……おまえさんは、わしたち人間とは違う。バイオリズムや気の周期は人間と比べて恐ろしく悠長だし、おぬし自身の力である程度調整もできる……それが……」
「何かが引き鉄になって……ヒトのそれと重なってしまっている……、か」
「ああ……そうだ。その引き鉄は……犬神、おまえ自身がよくわかっておるだろう」
そうだ。その理由は、俺自身が良くわかっている。
だが俺は……何かしらの理由を、今の今まで自分自身の「外側」に求めていた。
「おぬしは……これからどうしようと思ってるんだ、犬神……」
「解らない」
俺は正直に答えた。
「本当に狂ってるのかも知れないな……俺は。どこかにネジを一本落したんだろう」
「……犬神……」
俺のセリフに、たか子の声のトーンがひとつ、落ちた。
「人間は、おぬしに比べれば、確かにたかだか瞬きの間の時間しか生きられぬかもしれん。だが、おぬしが、わしらの時間に尺度を当てはめて、無理に考える必要はないだろう?」
だが、そうせずに生きていく方法があるのだろうか。
失うものの大きさが大きければ大きいほど、その傷口は深くなる。
ましてや、相手は光のあたる場所に居て、俺は日陰しか歩けない異端の者だ。
本来、平行線であるべきものが無理矢理交わった……その結果がどうなるか……それが解らないほど、俺は若くはない。
「無理なことを云うな」
「詳しく知らないから当てずっぽうで言わせてもらうけれど……大体、わしは京一はこんなことくらいでどうこうなるような奴ではないと思うよ。あの神夷の弟子になることができるくらいだからね」
「……」
「……おまえは、確かにわしなんかよりもずっと長く生きているかもしれないが……わしから云わせれば、誰よりも生きることに不器用に見えるよ」
「不器用、か……」
確かに、人間ほど器用だったとしたなら、俺は今ごろ、ここでこうして……たった一人の女性(ひと)との約束を守り、何十年も教師を勤めていないかもしれん。
俺は煙草の先に灯る火を見つめた。
細い煙が一筋、風に吹かれてふうっと大きく弧を描いて流れて溶ける。
風に抵抗することなく流される種ではなく、俺は自らこの場所に根をはやし、生き続ける草であることを選んだ。
「他人を思う気持が、悪いことばかりであるはずがないだろう。わしの知っておる犬神杜人という男は……ただの抜け殻だった……だが……今は……」
そう言って、たか子はふっと自嘲げな笑みを浮かべた。
「わしがもっと若い内に、おまえにそんな顔をさせてみたかったものだ」
俺は思わず笑った。
「そうだな……俺の目は、どうやら節穴だったようだ」
「その通りだ」
ふふふ、とたか子が笑った。
「杜人……わしはお前の味方だ。いつでも待っている……もし何かあればわしのところに来てくれ」
「ありがとう」
俺は、差し出された友の手を握った。
その指を、力強く握り返され、柄にもなく照れている自分に気が付き、それを隠すように、夜空を見上げる。
雲に覆われた夜は闇の色が濃く、今にも押しつぶされそうな黒に染まっていた。
だが、この厚い闇の中でさえ……確かに星は瞬いている。
光は、それを望むべき者の目に映るもの。
俺はもう一度、小さく感謝の言葉を呟くと、今、この瞬間に、愛しいと思う者の面影を、素直に心に描いた。