至って形式的な挨拶を口にして扉を出ると、夜の闇で冷やされた晩秋の風が頬を打つ。
「すみません、遅くまで引き止めてしまって……今日はいらしていただいて、本当にありがとうございました」
と何度目かの礼を述べて(何回目だかすでに数えるのを諦めた)玄関先まで見送りに出てきた婦人は頭を下げた。
それに返すこちらの言葉を待たずに再び口を開こうとする彼女に、俺は焦った。
「いえ、それでは、私はこれで」と無愛想に早口で言い、取ってつけたような会釈を返ししつつ自分から手を出してドアを閉める。
もう数時間も彼女の愚痴と悩みと世間話を聞き続けたのだ。
これ以上、玄関先で彼女の言うところの『深刻なお話』を切り出されてはたまらない。
それから俺が真っ先にしたことは、白衣のポケットに手を突っ込み、残り少なくなったしんせいの一本を取り出して火を付けることだった。
子供の将来を案じているのか、己の社会的な体面を案じているのか解らないが、鬼気迫るほどに真剣な表情の両親を目の前にしては、さすがに煙草を好きなだけ飲むというわけにはいかなかったせいだ。
何度か肺に白煙を送り込んでから、安堵と疲れの混ざったため息を吐きだし、俺は階段を歩き出す。
風にのってどこからか子供たちの嬌声が聞こえてきて、ふと踊り場から広がる景色へ目を向けた。
すでに薄暗くなっている空にどす黒い血の色をした雲が数本流れている。
東の空から上った丸い月が、黒く陰った雲の色を透かして鉛色の顔を覗かせていた。
無邪気な子供の声に重なるように、大人たちの呼び声が響く。
昨日と変わらぬ日常が変化もなく流れ、繰り返されることを信じて疑っていない人びと。
彼らは……いや、この街に住む大半の人間たちは、と言い直そう……自分たちの足元に忍び寄ってきている鬼や邪の存在を、知らない。
ましてや、それらと戦う運命を負った若者たちがその命を賭けて戦っていることなど。
せまりくる夜に押し出されるように、形容し難い不安感が胸の奥からせりあがってくる。
ここ二ヶ月、蓬莱寺とは、お互いの忙しさを理由にプライベートで会うことはなかった。
彼と俺との陰と陽の体内のリズムが、少しずつだが狂ってきている。
もともと、蓬莱寺の体内にある『気』が狂っていたのは、黄龍光臨により彼の持つ力が増幅され、それを容れる器の方がこれをコントロール出来ず、不安定な状態にあったせいだ。陽気が勝る時は闘争心が、陰気が勝る時は性的な衝動が、理性の殻を破って現れてくる。
だが、十分に己の『気』をコントロールできるようになった現在の彼なら、すでに自らの気のリズムをある程度操作可能だろう。
いつか、終止符が打たれるその日がくる。
確かに、俺はこんな不毛な関係が始まった頃から、わかっていたし、納得もしていた。
……だが、真実が目の前にあり、理性がそれを理解しているからと言って、素直に納得できるわけでもなく、ましてや未練が断ち切れる訳でもない。
それもまた、避けがたい事実だった。
不安定な思いが重なって、そのせいでナーバスな気分になるのだと理由をこじつけてみても、思考が紛れることはない。
真直ぐに家へ帰る気分にもなれず、随分とくたびれた商店街の入り口にある喫茶店で遅い夕食を食べ、コーヒーを飲み、それから駅へと歩き出した。
今日、家庭訪問をした生徒の家は墨田区にあった。真神のある新宿区とは学区が異なり、本来なら通学できないのだが、この生徒は三年の始めに家を引っ越し、今更転校させる訳にもいかないというので、ここから真神に通っている。
白髭団地と呼ばれているその一帯は、ひとことで言えば異世界のような景色だった。
同じ大きさ・形の建物がまるで地を割つように縦に伸びていて、なんとも形容しがたい威圧感が迫ってくる。延々と続くコンクリートの壁を目でずっと追っていると、まるで異世界に迷い込んだような感覚に陥った。
人通りが途絶えた通りに沿って連なる植木の深い緑の中に、何かが潜んでいるような……。
ふと、路地の奥から聞きなれた声が耳に飛び込んできた。
「ねぇ……本当に大丈夫かな……」
俺は足を止めた。
「まあ、あの二人のことだ……そこら辺のやつらに簡単にどうこうされるということはないだろう」
普段からよく耳にする声だった。
最初のものは女。三年C組の桜井小蒔。あとは男。同じくCクラスの醍醐雄矢だ。
人間の気配はそのそばにあと二つある。一緒に行動している確率の高さからして、それは多分、美里葵と、緋勇龍麻のものだろう。
「それに、脳天気な京一のことだ。きっとどこかでフラフラしてるさ」
「だと、いいんだけど……」
「とにかく、今日はもうこれで解散しよう。このままじゃ、俺らの方がまいっちまうぜ」
……何かあったのか?
蓬莱寺の名前が彼らの口にあがってきて、俺は息を飲んだ。
会話のニュアンスからすると、蓬莱寺の身に何かあったようにとれる。
俺は意を決して、物陰から彼らの元へ歩み寄った。
「あ……れ……犬神先生……?」
最初に気付いたのは桜井だった。
「こんな遅くにこんな所で何をしている?」
問い掛けると、皆は眼でそれぞれの気配をさぐりながら、口を開かない。
「あの……犬神先生は、どうしてここに?」
「そこの団地に生徒が居てな……家庭訪問の帰りだ」
美里の問いに簡潔に答えると、隣にいた緋勇が口を開いた。
「あの……俺ら京一を探してたんです」
「蓬莱寺を?」
「待合せをしていたんですけど、時間が過ぎても姿が見えないので、それで近くを捜して……」
美里が続ける。
俺は腕の時計を確認した。
「もう10時すぎだな……まだここら辺をうろつくつもりか?」
「いえ、もう遅いので、家に帰ろうと話しをしていたところでした」
と醍醐。
「ああ、その方がいいな。
こんな時間に真神の制服のままで補導されでもしたら、いろいろと問題があるだろう」
「はい」
「先生、あの……もし、京一を見掛けたら……」
「ああ、ついでだ少し近くを回ってみる」
「お願いします」
彼らは口々にそう言って、駅の方へと帰っていった。
*
今日が満月であることを、俺は神(もしいるとしたら、だが)に感謝せねばならないだろう。
同類たちの目や耳や声、風が運ぶ匂いを頼りに、それから一時間ほど走り回っただろうか。
細い路地の一角で、不意に、陰気の密度が濃厚になった。
すでに大半の住民は眠りについているのだろう。密集した住宅街からはひと気が失われ、時折、遠くから鳴るサイレンやエンジンの音がひどく耳に五月蝿い。
チキキキキ……
と、耳鳴りのような物の怪の笑い声が数十と重なり鼓膜を震わせる。
その呼び声に俺の中に棲むケダモノが呼応し、全身の毛が張り詰めた。
この先の……おそらくは生物の死の気配に集まった妖どもだ。亡者の魂や気を糧にしている、系列の中でも下級のものだが、数だけは多い。
(そこを退け! 邪魔をするな!)
同族にしか理解しえぬ言葉で一喝を下すと、それらの気配は蜘蛛の子を散らすようにかき消える。
そのまま地面を跳躍し、俺は角を曲がった。
風に運ばれてくる強い血の匂いに、心臓が跳ね上がる。
切れかけた蛍光燈が頭上で瞬いていた。
点滅する視界が、まるで古いフィルムで見る映画のようだ。
さらに奥へと進もうとして、不意にカラン、と乾いた音がして俺の足先が何かを蹴った。
視線を向けると、無残にへし曲げられた木刀が一つ、冷たい床の上に転がっている。
それは、昨日まで、俺が嫌というほど見慣れたものだった。
まさか……。
全感覚を凝らして闇の向こうを透かし見て、俺の意識は、真っ白に染まった。
無我夢中でコンクリートの上に倒れている影へと駆け寄り、しゃがみこむ。
「蓬莱寺……」
彼の身体がから流れ出る血液に、白衣の先が赤く湿った。
「蓬莱寺……!」
抱き起こして数度名前を呼ぶが、全く反応は返ってこない。
制服の上から切り付けられたのだろう。刀傷が左肩から右脇腹にかけて走っている。相当の深さだ。
腕の中の蓬莱寺はひどく青白い顔をしていた。死の影が彼の気に貼りついている。さっきの屍鬼どもは、この匂いに魅きつけられて集まってきたのだ。
だとすれば、時間がない……。
後先を考える余裕などなかった。
かりたてられる恐怖が後押しするまま、俺は蓬莱寺の顎を手で押さえて唇をつける。
重なった肌から、己の気を相手へ送りこむ。
蓬莱寺の体温の冷たさに、心ばかりが急いていく。
……誰がどんなことになろうと、たとえ命を落とすことになろうと、それが<定められた運命>だから、自分は関係ない。
大分以前に、俺が遠野に云った……ある意味自分自身を戒めるためのセリフが、今更ながら脳裏を過った。
俺の持つこの力は、本来そうあるはずだった人間の運命を変化させるほどに強力なものだ。
そして俺は、宿星の導き手として存在している。
その導き手が、必要以上に「宿星」にかかわることが、良い事であるはずがない。
わかっている。今、ここで蓬莱寺の運命に関わり、その命を生かすことが、彼に定められた星の運行を乱すことになることなど、誰より、何より……俺がわかっていることだ。
それでも、俺は……。
重ねた唇を離すことが、出来なかった。
「た、つ……ま?」
朦朧としつつも、意識が少し回復したらしい蓬莱寺の唇が、そう、かすかに動いた。
僅かだが、体温も回復してきているようだ。
もう大丈夫だろう。
「……喋るな」
俺は低くそう呟いて、俺は蓬莱寺の身体に自分の白衣を被せて抱えあげ、立ち上がった。
ここから新宿まで、直線距離で約十五キロほどある。人間の足なら少なく見積もって三時間といったところだが、俺なら人を一人抱えて走っても一時間もかかるまい。
夜の闇を縫うように走り、俺は桜ヶ丘病院へ急いだ。
すでに時刻は午前零時をまわっていたが、桜ヶ丘の明かりは消えていなかった。
眠そうな目をこすりながら玄関先に現われた岩山は、血に染まった俺と蓬莱寺の姿を見て息を飲んだ。
「……すぐに治療に入る」
それだけを云い、蓬莱寺を連れて病室へと消える。
何か手伝うことはないかと声を掛ける気力がないほど、俺は疲労していたようだ。
そのまま待合室のソファに倒れ込むと、ひどい脱力感が体中を軋ませた。
あの場で蓬莱寺の怪我を治すのに、俺自身の気を短時間に大量に消費していた上に、山の手線をほぼ横断する距離を走ってきたのだ。
たとえ今日が満月とはいえ、無茶をしたものだ。
思わず、苦い笑いが口の端からこぼれる。自分の行動が全く矛盾だらけで、理性や秩序を欠いていることが可笑しかった。
感情とは、これほどまでに激しいものなのか。
俺はもう随分と長いこと、そんなことすら忘れていたような気がする。
酒に酔うように、こういう気持ちに、しばらくの間……酔いどれてみるのも悪くない。
そんなことを素直に思えるほど、身体に残る火照りは熱く、ひどく眩かった。
蓬莱寺と最初に関係を持った、一年前のあの夜を思い出す。彼の芯から吹き出る激しい感情に、俺はあの時焼かれたのだと思った。
包み隠すことなく己を曝け出し、真正面からぶつかってくる蓬莱寺の、その強さに焼かれた。
善と悪、陰と陽、怒りと悦び、楽しみと哀しみ。そういった相反する感情がさまざまに溶け合い、ひとときも同じ顔を覗かせない、その鮮烈な色の魂に焼かれたのだ。
「犬神」
俺はどうやら、少し意識をなくしていたらしい。
名前を呼ばれて目を開けると、何時の間に治療室から出てきたのか、岩山が側に立っていた。
「蓬莱寺は?」
「大丈夫だよ。命に別状はない」
「そうか……」
半身を上げてそう答えながら、俺はおおきく安堵の息をつく。
「それより、おぬしの方は大丈夫なのかい?」
「ああ、これは蓬莱寺の血だ。怪我はない」
白衣に散る染を見ながら答えると、岩山は「そんなことじゃない」と呆れたような顔で首を横に振った。
「おぬし、気をだいぶ消費しているだろう? 京一の傷は二三日中には完治するくらいに綺麗に塞がっていた。元の傷の深さからして、相手へ送った気の大きさくらい見当はつくよ」
さすがに気づかれたらしい。
まあ、≪気≫の専門家を相手にして隠し通すつもりもなかったのだが。
「これくらいではくたばらん」
正直にいえば、貧血をおこしているような頭痛と耳鳴りが止まなかった。
だが、力の残量くらいは把握できる。明日一日、二日酔いの後より幾分かきつい程度のこの頭痛と付き合えばいいくらいのことだ。
「それより、白衣を貸してくれないか? さすがにこの格好では外を歩けないからな」
俺が頼むと、岩山は受付けの奥の部屋からクリーニング済みの白衣を取り出し、手渡した。
「すまんな」
それを羽織ながらそう謝ると、岩山は、彼女らしくもなくやや逡巡してから、ためらいがちに言葉を発した。
「あいつの……京一のそばにいてやらんのか?」
「いや……いい。身勝手な頼みだが……俺が運んできたことも伝えないでくれないか」
そう云うと、少しの間、沈黙があった。
俺の我侭なこの頼みを、断るべきか受けるべきか迷っているようだった。蓬莱寺は適当にでっちあげた嘘を聞いて納得するような相手じゃない。彼にどういう言葉で状況を説明すればいいのか……彼女はきっとそう思っているだろう。
たっぷり十秒ほどの間を置いて、岩山は重々しい声で首を縦に振った。
「いいのか……?」
「ああ……頼む」
俺はそれきり、後ろを振り向きはしなかった。
正義のヒーローを救う仲間の役など、俺には似合わない。
独りになった外の夜風は思ったよりも冷たく、身体にも、心にも、凍えるように染みた。
身体は、それこそボロ雑巾のように疲れているのだが、そのままアパートへ足を運ぶ気には、どうしてもなれない。
ふらつく足で歌舞伎町の前まで来ると、終電はとうに出た後だというのに、ひどい人の数だった。
ネオンの光に群れる蟻だ。
ノイズに似た喧騒が耳に溢れる。
酔っ払いのお喋り。女の笑い。呼び込みの声。てんてんばらばらな靴音。手拍子。耳に残らない流行のBGM。
圧倒的な数と繁殖力とで他の生きものをおしつぶし、ピラミッドの頂点に君臨するこの生物は、いったい何処から来て何処に還るのだろう。
俺と彼らとは、やはりいつまでも相容れない者同士には違いないが、それでも、自分の隣に温かな命を持つ身体があるということが妙に嬉しかった。
独りの時間をどれほど長く生きようとも、孤独を紛らわすことが上手くできない。
現実の厳しさを嫌というほど味わい尽くしているのにもかかわらず、一塵の希望的な仮定が胸に芽生えれば、否定する伴侶を持たぬ孤独で憐れな男は、いともたやすくその狂気に支配され、やがて水に映る月を求めて溺れていく。
だから、俺はこの人の波に身を寄せる。
この小さな国の狭い土地にひしめきあいながら住んでいるにもかかわらず、多分に一生口を聞かないであろう誰かでも、ただそばにいるだけで、妙な安堵を憶えるのだ。
誰かの温度でこの身体が温まると、その皮膚を通して、心まで暖められた気になる。
「どぉですかぁ?」
女の甘ったるい声が響き、不意に腕をつかまれた。
まさか俺のようなくたびれた格好をしている中年男をナンパする女などいるはずがないので、すぐに見当がつく。
視線を向けると、日焼けした肌に、肩と胸を盛大に露出させたワンピース。ようやく二十に手が届いたか届かないかくらいの若い女性だった。
性の快楽を売る女だろう。
パールホワイトのアイシャドウとリップをつけ、ブルーのカラーコンタクトを入れた瞳の下に、青銀のビーズの涙が光っている。自らの哀しみを化粧の底に押し込めた道化師の表情に似ていると、ふと、俺はそんなことを思った。
「ね? お安くしときますよぉ?」
きついフローラルの香りが、首筋からたちのぼる。
頭痛が増した。
蓬莱寺は……いつも、汗と日向の匂いしかしなかったな……。
久しく、オスを寄せ付けるメスの振りまく香りに触れたことはなかった。
俺はゆっくりと、だが断固とした力で、女の腕を振りほどいた。
「失礼」
そう、形だけの言葉を口にして、通り過ぎる。
背中ごしに、女が次の獲物に腕を絡ませる声を聞く。
こうして、何かを提供するものがいて、それを買うものがいる。
欲望は誰か一人がその輪をたちきろうと、矛先を変えて循環し、ねじれ、誰かにつながる。
メビウスの輪のように。
その図太さがあるから、ヒトはこの地上に、こうものさばることができたのだろう。
……と思うのは、俺の血族のプライドが吐く言葉だろうか。
やや自嘲気味にそんなことを思いながら、俺は紫煙とともに、言葉にならない塊を吐きだす。
いつから、俺は牙を折りながら生きていくことをおぼえたのだろうか。
だが、最後の砦のように、貧弱なプライドだけを引きずって生きている気がする。
こんなことを考えるのも、らしくない。
本当は、たった一人のことが気にかかるのに、俺はそれを考えることを避けている。
一度考え始めれば、ろくな結論に達することはない。
重たい身体を引きずりながら、俺は一体こんな所で何をしたいのか、と、苛立ちを覚える。
俺は自分の運命を不幸だと呪ったこともないければ、この出生を蔑んだこともない。
真神に残ると決心したことを後悔してもいないし、蓬莱寺を抱いたことを懺悔するつもりもない。
そう言い切れるだけの覚悟はあるのに、心には、それとは裏腹な闇が芽生えてくる。
もしも……もしも、という言葉が俺に許されるとしたなら。
彼らと同じ時を生き、彼らと同じ歩を進め、そして……彼らと同じ終着点へ辿り着きたい。
決して叶わぬと知る望みを未来永劫、渇望し続けることを。起こらぬ奇跡をただ待ち続けることを。
もしかしたら、祈り、と人は呼ぶのだろうか。
俺は歩きつづけている。
煌びやかな新宿の光のそばに落ちる、深く果ての無い闇にのまれるように、この祈りは、決して届くことはないだろうと確信しながら。
俺は、歩きつづけるしかない。
*
蓬莱寺が病院からいなくなったと、たか子から連絡を受けたのは翌日の放課後のことだった。