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 !  必 読 事 項





犬神/京一
執筆:ナツ
三人称
スクロールする前に必ず ココ を読んでね。

雪 の 夜

 夕刻を過ぎた新宿中央公園から眺める景色には、今日が元旦だというせいもあったが、車の数も、人の数もひどく少なかった。
 皮膚を刺すほどに冴え渡る冬の寒さは、都心の脂ぎった空気を浄化させる作用があるのか、濁った空はいつもより自分の手元に近いような気がした。
 半ば意地のようにまくりあげていたセーターの袖を手首まで下ろし、襟の中に顎を埋めると、蓬莱寺京一はかじかんだ手に息を吐きかけた。
 自分の口が吐き出す息の白さに、今さらながら肌の冷たさを実感した。
 現在の気温は摂氏零℃をやや下回っている。テレビでは、今年の初雪が今日中に拝める可能性が高いという予測を報じていた。
 それにも関わらず、相変わらずといっては何だが、京一はコートもマフラーも持ってはいないようだった。
 防寒には針の先ほども全く役に立たないであろう木刀をひとつ肩に凭せ掛け、植え込みの側にあるベンチに座り、景色を楽しむでもなく虚空へ泳がせた視線がやけに真剣味を帯びている。
 道路を挟んだ向こうから、人の笑い声が耳に入った。
 近くの熊野神社へ初詣した帰りなのか、晴れ着姿のカップルが幾組か目に付く。その後ろからは、こんな日にまで仕事があったのか、飲み会帰りと思しきサラリーマンたちが数人、大声で何ごとかを言い合いながら歩いていた。
 公園のモニュメントの上にある時計が、カチリ、とまた時を刻む。
 迫りくる闇を振り切るようにして、舗道に続く街灯や、群れるような高層ビルの窓にも、ぽつぽつと明かりが点り始める。
 雲は今にも雪を落としそうなほどに重たく、そのせいか、空の様子は実際の時刻より、数十分も過ぎているような感覚だった。
 瞬きの間に、夜へ支配されていく風景を見ながら、京一は大きなため息をついた。
 もうこれで何度目のため息か解らない。
 原因は、彼の手に握られた一枚の紙切れだった。ノートを無造作に引き千切ったそれには、いくつかの文字と数字が並んでいる。
『新宿区西新宿××-×× 春月荘205号室 03−(31××)−××××』
 前半分は住所で、後ろ半分は電話番号だろうと思われた。
 それが誰の家を示すものか、もちろん、当の京一本人には嫌というほど解っている。
 しかし、今日は日本人にとっての一大イベント『元旦』である。いくらこのメモの相手が天涯孤独で気ままな一人暮らしをしているとは言え、親戚関係や職場関係はもちろんあるハズで、そこで多少の付合いというものはあるだろう。
 ムダ足を運ぶのも嫌だったが、それ以上に誰かと鉢合わせになることが嫌だった。だから、せめて相手へ電話のひとつでもして確認を取らないとな、思いつつ、もう一時間近くも京一の決心はつかない。
 気まぐれに……と理由をつけて何となく足を運んできたものの、こんなところでうだうだとしている自分が情けない。
 相手に会ってしまったら最後、なし崩し的に、青少年育成にはとことん良ろしくない結果に終わってしまうことは目に見えている訳で……。
「……っだあ〜〜〜ッ、何考えてんだよ、俺らしくねェ!」
 シュミレーションのすえ行き着いた結果に、京一は思わず頭を抱えた。
 だが、このままただ悪戯に時間が過ぎるのを待っていても仕様がない。
「別に……深い意味はねぇんだからなッ」
 誰にともなくそう言い、京一はベンチから立ち上がった。
 とたん。
「何がだ、蓬莱寺」
 突然背後から、嫌というほど聞き慣れた低い声が降ってきた。
「うわあッ」
 心臓が口から出そうな勢いで驚いた京一は、声のトーンを一段あげて飛び上がり、そのまま後ろに一メートルほど後ずさりしてしまう。
「い、犬神ッ!?」
 そこには、何をそんなに驚くんだといった呆れた顔で、相変わらずのよれよれのセーターに流行もそっけもない紺色のコートとマフラーをひっかけた犬神杜人が立っていた。
 そんな格好の上、不精髭に黒フレームの眼鏡、とくればハローワーク帰りのさえない中年といった方がしっくりとするイメージだが、これでも、この男はれっきとした県立真神学園の生物教師である。
「だああッ」
 その犬神が、さっき驚いた拍子に自分の手からすべりおちた紙切れを拾うのを見て、京一は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「テメェ、勝手に見んな」
 だが、焦った京一がそれを取り戻した時には、犬神の視線は紙の上に書かれた文字をすべて追った後だった。
 犬神は拗ねた表情の京一の上に、やや呆れたような視線を注いだ。
「な、なんだよ……」
「俺の家の住所と電話番号のようだが……」
「べっ……別にやましいトコから盗んできた訳じゃねぇよ」
 教師の住所と電話番号を調べるなんてことは、造作もないことだ。各クラスに配布される教員名簿を見れば一発で解る。
「年賀状を書くには遅すぎると思うんだが」
 からかうような口調で犬神が言うと、京一は相変わらず不機嫌そうな表情を張りつかせたまま、視線を逸らした。
 それは、遅刻した時や、未提出の課題について言及したときの彼の姿とそっくりだった。つまり、十中八九はろくでもない言訳を考えている時の彼と。
 犬神は、コートのポケットからタバコを取り出した。これもまた、彼の容姿のイメージにピッタリくるような銘柄である。一箱百五十円の『SHINSEI』。一九四九年に発売された、フィルターのない、今となってはめずらしい両切りタイプの煙草だ。
 それをゆっくり一本抜き出して火をつけると、ようやく京一が声を上げる。
「お年玉! そう、お年玉だ! テメェんとこにそいつをもらいに行こうと思ってよ」
 今時、はじめてのおつかいに成功した子供でもこうはなるまい、というような得意げな顔で、京一は胸を反らす。
 そんな彼にちらりと視線をむけて、犬神は自分の左頬に指を当てると、何の抑揚もなく相手へ云った。
「左の頬に何かついているぞ、蓬莱寺」
「へ?」
 突然なにを言い出すのかという顔をしながらも、指摘されたところを拭った手の甲に、真っ赤なルージュがべっとりとついてくる。
 どう見ても、女の唇が押し付けられた跡であることに間違いない。
 京一は先程以上に焦った。
「だ……こ、これは……ッ……さっき桜ヶ丘行った時に、岩山センセイが年始のあいさつだっつって無理矢理……」
 しどろもどろに言葉を続ける京一に、犬神は思わず苦笑した。
「何か付いていると言っただけで、誰もそんなことを訊いていないだろうが」
「う、ウルセェッ、俺が言いてェから言ってんだよ。悪いかッ」
 真っ赤になった京一がそう叫ぶ。自分からドツボに嵌まっていっていることを認めたらしい。
 その時。
「……あれ?」
 二人の視界に、白いものがひらひらと舞い出した。
「雪……?」
 目ざとく見つけた京一が、天を仰ぐ。
 黒灰色をした空から、細かな氷の粒が幾千、幾万となく落ちてくるのが見えた。
 公園の街灯に、白いその身体がキラキラと光を反射する。
「ああ、降り出してきたか……」
 同じように犬神も天空を見上げ、それからふと思い出したようにして自分のマフラーを解き、それを京一の首に掛けてやる。
「今夜一晩は止まないそうだ。ひどい降りにならないうちに帰れ」
 犬神のその言葉に、京一は何か返そうとして、盛大にくしゃみをした。
 この寒さの中、自分がセーター一枚という薄着であることを、ようやく自覚したようだ。
 さらに喋ろうとするが、続けざまに出たくしゃみで、言葉にならない。
 それを見て、結局言葉を発したのは犬神だった。
「おせちと雑煮が家にある。来るなら出してやらんこともないが」
 おせちと雑煮くらい、どこの家でも正月になれば作るだろうと思うのだが、それを聞いた京一は大袈裟と思えるほどに目を輝かせた。
「マジかッ!?」
 そう言った後で、恐る恐るといった感じにこう付け足す。
「……って……ひょっとして、犬神……てめーが作った、とか……?」
「まさか。下にいる大家が毎年持ってきてくれるものだ。味は文句ない」
 犬神にとって文句がないとは、『文句なく美味い』という意味ではなく、とりあえず食うことはできるシロモノである、という場合の表現である。それから、ふと思い出してこう付け加えた。
「年越し蕎麦の残りもあったな」
 その言葉を聞いて、がぜん京一の元気は出たようだ。彼は、常人には到達できないくらい、単純な思考回路を持っているらしい。
「行く。行く! ちょうど腹へってるし。やっぱ、元旦はおせちと雑煮だよなッ」
 全開の笑みで答えながら、京一はスキップでもしそうな勢いで歩き出した。
 犬神の方はといえば、それで自分のペースを崩すことはなく、先をいく京一の後ろを何時もの速度で付いていく。
 京一は、数メートル先の道路で待っていた。
 それに追いつくと、犬神のコートの右ポケットに断りもなく京一の手が入り込んできて、ぐいと重力の方向にひっぱる。
 タバコを持っていた犬神の右手は外に出ていて、右ポケットは空いていたのだ。
 いきなりなんだと顔を向けると、
「片方借りるぜっ」
 と、不敵な笑みを浮かべた京一が、さも当然の権利だという顔で主張してくる。
 犬神は吸っていた煙草を携帯灰皿に押し込めると、自分の手もそのポケットへと入れ、相手の手に触れた。
「随分冷えているな。お前、中央公園にどれくらい居たんだ」
「べっ……別にどうでもいいだろ、そういうことは」
 雪の降り出した道路には、先程にも増して人の気配はない。
 陳腐な歌の歌詞のようだけれども、冬のこの冷たさは、お互いの距離を縮めるには都合がいいものだ。
 そのせいかどうかは解らないが、京一は、重ねられた相手の手を振り解くことはしなかった。
 道の向こうにある自動販売機の明かりが、雪の影の後ろで暖かな光を投げかけている。
 しんしんと音も無く降り積もってくる雪に二つの足音が連なり、わずかなためらいを残した距離を保つ二人の姿は、夜の闇の向こうへと、ゆっくりと消えていった。

1999年の元旦の話。
……って、あんたらのんびりラブラブデートなんてしてる暇、ないんとちゃうか(笑)BY ナツ

Web初掲載:2000/06/07
Web再掲載:2000/12/01



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