! 必 読 事 項 |
▼ ▼ ▼ ▼ 犬神/京一 執筆:ナツ 三人称 スクロールする前に必ず ココ を読んでね。 |
器 怪 |
手合わせを頼んできた後輩を五人ばかり叩きのめしたところで、蓬莱寺京一は試合場を降りた。 髪と汗を押さえる手拭いはすでに湿り気を帯び、頬の辺りを大粒の汗が流れ落ちていくのが解る。 己の安全の為ということは十分に承知しているが、この防具の『面』というやつが、どうにも京一は苦手であった。 第一に着けるのが面倒ということがあるのだが、縦と横に走る面金のせいで視界は普段の五分の一くらいに狭まるし、肩を保護する面垂れで腕は上げにくい。その上、これを被ると猛烈に暑くて滝のように汗が出る。 防具はもちろん、丸洗いというのはできず、陰干しにすることしか出来ないから、手拭いで吸いきれない汗は中に染み付き、取れなくなる。 そんな防具がならべてある剣道部の部室の中がどういう状態か、それから押して知るべし。 「女の子が居ねぇのも、無理ねェよな……」 愚痴っぽくそんなことを呟きながら面と小手を取ると、京一は風通しの良い窓際の柱にへばりつき、床の上に倒れた。 楽しい夏休みの最中にむさ苦しい野郎どもと一緒に部活をするのは京一が本来望むことではないのだが、今日は他校の生徒が練習試合に訪れるという予定が組まれていたため、副部長に電話でたたき起こされた彼は、仕方なく学校に登校してきた訳である。 「あぁ……空が青いぜ……なんで俺は学校に出てきて汗くせぇ剣道なんてやってんだ……ちっくしょお……海に行きてぇ」 どんな基準で京一が選ばれたのかは解らないが、剣道部部長という立場に身を置く人間が云う台詞ではないだろう。 だらしない格好のまま涼んでいた京一の顔の上に、突然タオルが降ってきた。 「う゛わ゛っ」 どうやら、振ってきたタオルはつい先程まで氷か何かをを包んでいたものらしく、その余りの冷たさに京一は飛び起きた。 「お疲れ」 という声がして見ると、剣道部副部長の新藤が、こちらに向かってアクエリアスの五百ミリリットル缶を差し出しているところだった。 「へへ。サンキュー」 京一は受取り、プルタブを開けて一気に喉に流し込む。 「圧勝だったな」 「んあ?」 「今日の試合」 近くの私立高校と総当たり戦で練習試合をしたのだが、結局、数十回対戦した中で京一は負けなし。そのうえ、一本はおろか有効すらもらっていない。まさに圧勝という形容がぴったりくる。 「当然じゃねーか。俺を誰だと思ってんだよ」 「ろくに練習にも出てこないヤツが、良く言うぜ」 新藤は呆れた顔で云った。入部したての頃は、部活にろくに顔をださず、そのくせ実力だけは人五倍くらいある京一に嫉妬めいたものを感じていた頃もあったのだが、三年間付合い、彼の剣技が、決して己の素質だけに頼って完成されているものではないことを知ってからは、彼は良きサポート役に徹しようと決めている。 だが、時折こうして文句のひとつも云ってやらないことには、腹の虫が収まらないのも事実だ。 「部会には一度も顔ださねぇし、試合当日の遅刻と忘れ物の常習犯だし、未だに後輩の名前をロクに覚えないし……」 「解ったわかったッ、悪かったって新藤。けどよ、元はといえば、『年越し稽古の総当たり戦で優勝した奴が部長』、なんつーアバウトな伝統のある部の方針がいけねェんだからなッ」 何の事情も聞かされず、『優勝した奴には、年越しラーメンを好きなだけ食べさせてやるぞ』などという先輩たちの甘い言葉にまんまと踊らされ、結局京一は勝ってしまったのだった。 部長なんていう面倒な立場に追い込まれる事を知っていれば、あの時意地でも負けていたのに、と何度後悔したことか。 「それでも一旦引き受けたことは、だな、」 「だああぁっ、お前まで、醍醐が言うみてェなこと言うなって」 醍醐とは同じクラスにいる京一の親友のことだった。京一と違って、根から真面目で、教師たちの評判もすこぶる良い。 怒ったような口調で新藤に云ってから、京一は自分のその言動を少し反省したようだった。 「でも……ま、お前には、結構感謝してるぜ。仕事全部まかせっきりだもんな、俺。試合には絶対ぇ勝つ、ってことくらいしか、してねぇし」 たったそれだけの台詞を言うのに、京一は何故か激しく照れている。 まあ、京一のそういうところが、どうしても憎めないんだけれど、と新藤は苦笑し、話題を変えた。 「そういや、京一、お前さ、西高の今泉ってコ、覚えてるか?」 「今泉? 今泉……今泉……ん〜、名前は、どっかで聞いたことがあるような、ないようなカンジなんだけど……あッ、アレか!」 眉間に皺を寄せていた京一が、思い出したようにポン、と手を叩いた。 「『●畑任三郎』に出てた奴だなッ!」 「……アホ、そりゃ刑事ドラマの今泉だろ。オレが言ってるのは、西高の今泉ッ!」 手に持っていた名簿でご丁寧に京一にパシッ、とツッコミを入れてから、新藤は続けた。 「ほら……インハイの予選の準決勝の時、差し入れにきてくれた女のコ、いるだろ?」 「ああ、あの二年生か! 雰囲気が舞園さやかちゃんに似てた」 今から三ヶ月ほど前に開かれた都の予選のことを、京一はどうにか記憶の底から引っ張り出した。 京一の特技が幸いして、女のコの顔だけは、どうにか忘れてはいかなかったようだ。 「んだよ、そのコが、どうかしたのか?」 「ええと、ぶっちゃけた話、俺の彼女なんだけどさ……」 「ぬぁあああぁにぃ!?」 京一は、新藤の予想通りの反応を返した。彼の思考回路は、自分が好きだとか相手が気に入っているだとかいうものを超越して、とりあえず可愛い女のコには均等に独占欲が働くらしい。 「何時の間にてめぇ、そんなコトになってやがったんだッ」 「西高とここ近いだろ、ちょくちょく練習に来たり行ったりしている間だよ。部活サボってばっかりだったから解らないと思うけどな、京一は」 「俺だって、可愛い女のコが居るトコにだったら真面目に毎日通うぜ!」 「……お前な……って、いや、突っ込んでるとキリないから本題に入るけど、彼女がトラブル抱えててさ……京一、ちょっと会って話を聞いてくんねぇかな?」 「トラブルって、何だよ? 色恋沙汰か?」 「馬鹿。そんなの、お前に云ってどうすんだよ。余計ややこしくするだけだろ」 「何だその、断定的な言い方はッ! 激しくムカつくだろーがッ」 「とーにーかーく、オレも良く事情は分からないんだけどさ、霊とか、オカルトとか、そういうのに関係するらしいんだよな」 「オカルトォ?」 と、京一は思わず眉を顰めた。 三年の新学期が始まってからこちら、京一が巻き込まれた怪事件が頭を過ぎる。人を襲うカラス、墨田区の夢魔の事件、人が石化させられた事件や、水辺の失踪事件。どれもこれも、一筋縄ではいかなかったものである。 こうやって並べると、最近の京一の周りはトラブル続きだ。 「最近、お前オカルト研究会の部長と仲良いんだろ?」 「じっ、冗談じゃねェ。何で俺が裏密と仲良くしてなきゃいけねぇんだよ!」 オカルト研究会といえば、床に逆十字やら髑髏やらを描き、丑三時にロウソクの炎の下で、エロイムエッサイムなどと呪文を唱えながら、コウモリの羽根やら鶏の生血やらの入った鍋をこねくりまわすというイメージしか、京一にはない。 もちろんそれは京一の超個人的な偏見に基くイメージの集合体である。確かに変人は少なくないけれども、オカルト研究会の活動自体は、心霊現象や占星術やら魔術やらの研究を主としている真面目なものなのだ。 「けど、京一とあとクラスメートだっけ、旧校舎の近くで、よく一緒に居るだろ?」 「居るは居るけど、仲が良くなった覚えはねぇッ、断じて俺は否定するッ!」 噛み付きそうな京一の勢いに、さすがの新藤も気圧された。 「仲が悪いのは解ったからさ、とにかく、オレ、こういうの頼めるの京一しか思い付かないんだよ。頼む。話だけでも聞いてやってくれねぇか?」 「解ったよ。んじゃ、話は聞く」 いつもいつも世話にばっかりなっている副部長たっての頼みとあれば、やはり無下に断ることができない。 「本当か!?」 京一が云うと、新藤の顔に安堵の表情が一気に広がる。 「とりあえず、話を聞くだけだからな。あんまり、期待すんなよ」 事情も聞かないうちからあまり頼りにされるのも困るのか、京一はそう念を押し、今日も海は遠くなったと、心密かにため息をついてみたりした。 *
場所は三−Aの教室、新藤のクラスである。 「これです」 という今泉の言葉と共に机の上に差し出されたのは、どこにでもあるようなありふれた、銀色の携帯電話だった。 持ち主は装飾には一切無頓着なのだろう、ストラップは最初からついているシンプルな黒いもので、シールやペイントも一切されていない。 京一は着替えるのが面倒だったのか、防具を外した道衣と袴姿で、背もたれを前にして椅子を跨ぐような格好で座っている。 その向かいには、私服姿の今泉と、制服を着た新藤。 どうやら、新藤は最初から彼女に会わせることを計画していたらしく、京一がオーケーを出すとすぐさま、これから昼食時間で休憩、ということにして(部長より権力のある副部長はこういうことができる)ここまで連れてきたのだ。 京一は、目の前に差し出された携帯電話を手に取ると、適当なキーを押してみる。 画面のバックライトが薄緑色に光った。感度を示すアンテナと残り電源と時刻が、デジタルディスプレイに表示されている。 「ふーん。別に何も変じゃねぇと思うけど」 先ほど今泉が話したことを総合すると、この携帯電話に一週間前から気味の悪い電話が掛かってくるという。 それも、電話を通話圏外の場所においている時はおろか、電源を切っている時さえその電話が掛かってくるいうのだ。まるで霊界からの通信のように。 そんな話をにわかに信じろという方が無理というものだろう。 「でも……本当なんです……本当に……」 彼女の表情は病的なくらいに必死だった。 良く見れば、ろくに寝ていないのだろうか、ファンデーションの上からでも、目の下のくまがくっきりと解る。 そんな今泉に気圧されて、重たい雰囲気を軽く茶化そうとしていた京一は、出鼻をくじかれて口どもる。 「別に、信じてねェ訳じゃねえって……そんなに嫌ならさ、こんなモン使いつづけるより、そのまま捨てりゃあいいんじゃねぇの?」 「怖くて……できないんです」 「そのまま捨てたりすると、後で何があるか解らなだろ? 心霊写真みてーにさ、何の供養もしないで捨てたりすると祟りがある、とか、聞くし……」 憔悴しきっている今泉の代わりに新藤が言葉を補った。 「まァ、確かにな」 正体不明のままで終わってしまうより、嘘でもいいから誰かに『大丈夫』と云ってもらえれば、それだけで、心理的にも大分楽になるに違いない。 京一は携帯電話を道衣の中に突っ込んだ。 「わかった。そんじゃ、この携帯は俺が責任持って処分しとくぜ。それでいいだろ?」 「えっ……いいんですか?」 頼んでいるのは可愛い女の子なのである。 加えて、自分しか頼る人がいないと言われては尚更だ。フェミニストの京一に断れるはずがなかった。 「あァ。ま、いろいろツテはあるしよ。なんとかなるだろ。まかせとけって」 出来るだけお気楽な声をつくって、京一は椅子から立ち上がった。 そのまま、「んじゃ、俺はこれで帰るわ」とドアの方へ歩いていく。 「あ、おい! 京一、午後の練習が……」 呼び止めようとドアに走り寄った新藤の首を、京一の腕がからめとった。 「ラーメン二杯と餃子で手ェ打ってやるぜ」 耳元に囁くような声でそう要請すると、相手が返事をする隙を与えず、京一はそのまま手を振って階段を降りて行く。 「奮発してチャーハンもつけるよ」 その背中を引き止めることは出来ずに、副部長は苦笑しながら、そう付け加えた。 *
とは云ったものの、夏まっさかりの八月である。真っ昼間から外をうろつく気にはなれず、制服に着替えた京一は学校の図書館で涼んでいた。 クーラーの効いた館内には、受験勉強をしにきているのだろうか、結構な数の生徒がいる。 「にしても、どうすりゃいいんだ、コレを」 目の前に敵がいれば叩きのめせばいいという単純な話になるが、そうではないのだから困る。 先程譲り受けた携帯電話を取り出し、見てみると、電話帳のメモリはあらかじめ削除してあるのか、電話番号は一件も登録されていなかった。 普段こういうものを持ち歩いていない京一は、壊しても良いものという気楽さがあるせいか、あれやこれやと機能を試してみては、いちいち感心している。 その時だ。 プルルルル……プルルルル…… 唐突に、電話が鳴き出した。 「うわッ」 予想外の大きな音に驚いた京一は、咄嗟に通話ボタンを押し、ひと呼吸おいてから返事を返す。 「もしもし?」 『……し…………ネ…………ぃ……んで……死……』 ひどいノイズの合間から、女とも男ともつかない声が耳に飛び込んでくる。電話の向こうから聞こえる音は反響がひどく、耳の奥で二重・三重になり、不快に響く。 とっさに、タチの悪いイタズラ電話だと思った。 「誰だ、てめぇ!」 マイクに向かって怒鳴ると、 (ザワザワザワザワ) 雨のような雑音の合間から、ひきつるような笑い声らしきものが聞こえる。 「おいっ、聞こえてんだろうがッ! 何とかいいやがれ!」 『(……マ……え……が………デ…)』 不明瞭な言葉の羅列が流れる。 「この……ッ」 さらに言葉を重ねようとしたところで、とんとん、と誰かに肩を叩かれた。 不覚にも京一が振り返った隙に、受話器が離れた絵のついたボタンを、プチリと押される。 「あっ、テメッ、何、」 しがやる、と続けようとしたところで、相手と目線が合い、京一はそのまま声を飲み込んだ。 年がら年中変わり映えのしないよれよれの白衣に、シャツとネクタイ。 犬神杜人は無精髭をなでつけ、絶句したままの教え子を見下ろすと、格別表情も変えずに図書室の扉を指差した。 「電話をするなら外へ出ろ、蓬莱寺。迷惑だ」 「あっ、ああ」 「わかったな?」 資料か何かを取りに来ただけだったのだろう。それだけを告げると、数冊の本をかかえた犬神は、自分が図書室の出口から姿を消した。 その後ろ姿を数秒ほど呆けて見ていた京一だったが、はっと何かに気付いたように身体を浮かせると、犬神の後を追って走り出した。 廊下で追いつき、京一は犬神の白衣の腕を掴んだ。 「犬神」 いつの間に取り出したのか、煙草を口に咥えたまま、犬神はかったるそうに足を止める。 「なんだ」 「あのさ……ちょっと聞きてぇことがあるんだけどよ」 「フッ、珍しいな。漸く真面目に勉強する気にでもなったのか?」 一学期の京一のテストの点は立派な赤点だった。だが、それくらいのことで彼が心を入れ替えて勉強に精を出すことなどある訳がないと知っていて、犬神は揶揄するようにそんなことを云う。 「へっ、俺が勉強なんざ真面目にするようになった日にゃ、恐怖の大王も腰抜かすぜ」 全く自慢にもならないようなことを、京一は誇らしげに言ってのける。 「それもそうだな」 この男の考えることは本当に把握できないなとしみじみと考え、そんな己に犬神は失笑した。 *
生物準備室の机の上は、相変わらず汚かった。 だが、ありがたいことにクーラーは良く効いている。 「てめぇが煎れると、天下の玉露も百グラム三百円のただの茶だッ!」 などと断言して京一が煎れた茶は、確かに本人が上手いと云うだけあって、犬神が作るものの数倍は美味かった。 湯の温度や葉の量や待ち時間などをいちいち覚えてまで、茶を飲もうという努力をしたことのない犬神は素直に感嘆する。 「これくらい教科書の内容も覚えてみたらどうだ」 「うるせぇな、ミトコンドリアだかDNAだかなんざ、憶えたってどーせ何の役にもたたねぇだろ。その点、茶が美味いと、飲む時に幸せになれる。実用的だろーがッ」 「なるほど……」 だから成績は下降の一途をたどるだけかと苦笑し、犬神は熱い茶をすすった。 「で、ただのイタズラ電話じゃねぇかと思うんだけどよ、俺は」 向かいに座る京一は、簡潔に携帯電話の事情を説明し終えると、そんな言葉で話を結んだ。 質問を挟まず聞いていた犬神が、三分の一に縮んだ煙草を灰皿の上に押し付ける。 「それなら、通話範囲外だろうが電源を切っていようが、その電話が掛かってくるというのはどう説明するんだ?」 「それはさ……彼女の気のせい、じゃねぇかと思うんだよな。気にしすぎて空耳が聞こえるってこと、あると思うし……」 「フッ……お前にしては、なかなか論理的な意見だな」 「てめえなぁ。余計なんだよ、その一言がッ!」 京一の言葉を聞き流し、換気のために窓に隙間をつくると、犬神は再び新しい煙草に火をつけた。 とたん、まだ都会にもいたのかと感心するくらいのセミの声と共に、熱気と湿気を帯びた空気が室内に入り込んでくる。 それでも、日が傾き始めた外は、大分涼しくなっているようだった。 実際、蝉が鳴くのは昼の一番暑い昼どきではなく、明け方や夕時のやや涼しくなった時間帯なのだが、この蝉時雨からイメージするものはといえば、大抵の人間が、燦燦と陽の射す真夏の暑い日と答えるのは何故なのか。 そんな素朴な、そして全く重要でない疑問をふと思い出しながら、犬神は口を開いた。 「蓬莱寺、お前、『キッカイ』という言葉があるのは知っているか?」 「キッカイ……? 『奇妙』の『奇』と『怪物』の『怪』……で奇怪、って書くヤツか?」 「いや、『器』の『怪』と書いて、器怪だ」 メモ帳に漢字を記して京一に見せる。 「日本では主に、土佐絵・土佐派の絵描きが好んでモチーフに使っていたが、櫃や長持に手足が生えて道を練り歩く絵を見た事があるだろう?」 「……よく、解んねぇけど、イメージはなんとなく」 要するにタンスとかに手足が生えた妖怪みてーなもんが列をつくってねり歩いてるような絵なんだろうと想像し、京一は曖昧に答えた。 「器怪というのは、人間の『道具』だった日用品が古びて使われなくなった時、『モノ』から『モノノケ』に変化することを示す言葉だ」 「モノノケ……」 「人間の手に使われた『モノ』はただの『モノ』ではない。使っていた年月や人間たちの数だけ『気』が宿る。……たとえば、このペンだ」 犬神は自分の手にあるペンを目線の高さに上げた。 「これは俺が使っている間は『ペン』という名前と文字を書くという役割があるな。だが、このペンがペンとしての役割を終え、廃棄物になったとたん、これには、名がなくなり、役目がなくなる。……つまりは、ただの『モノ』という器だけが取り残された状態になる。そして、この『モノ』の中に長い間蓄積され続けた『気』が『怪』に化ける。それがモノノケ……つまり『物怪』と呼ばれる訳だ」 「ってことはよ、古いものは妖怪の一種、ってことになるのか?」 ソファの上であぐらをかき、まるで自分の家のようにくつろぐ教え子は、『納得できない』とでかでかと顔に書いてあった。 科学の洗礼を受けているこの時代の子供には、モノノケなどという言葉などを身近に感じることはないだろう。その昔神秘のベールに包まれていた『気』は『電気』や『磁気』に化け、人の生活に溶け込んでいる。 「昔はそういう考えがあった、ということだ」 一息ついて、ぬるくなった茶を口に運び、犬神は煙を肺の中に一口深く吸いこみ、ゆっくりと吐き出した。 「けど、やっぱ俺には良く解んねぇ。なんで、たかだか物が古くなっただけでそうなるんだよ?」 「……そうだな、言葉で言うより、触った方が解るだろう」 犬神は不意に椅子から立ち上がり、ロッカーの鍵を開けた。そこから、七十センチほどの細長い物体を取り出し、京一へ手渡した。 「抜いてみろ」 どうやら、犬神が取り出した長細いそれは、刀を収めた鞘のようだった。使い込まれた木の感触が、京一の手の上に不思議なほどに馴染む。 吸い付けられるようにして抜刀すると、飾り気のまったく無い鞘の下から、冴え冴えとした鋼の色が現れる。 「どうだ? 何の知識もなくても『解る』だろう。その刀のもつ『力』が、どの程度のものか」 視線を魅きつけられた京一の背後から、犬神の声が飛んだ。 「それが『器』に宿る『気』だ」 「ああ、」 こういうことか、と京一は深く頷いた。 あらゆる人の手から手へ渡り、時代を超えて存在しつづけ、その器の中にさまざまな思いを閉じ込めた刀。横の愛刀も、確かに手には馴染んだものではあるのだが、自分がそれをいくら使い込もうと、これほどの『気』を発することは不可能だろう。 「今は道具を使い捨てる時代だからな……人は『化ける』ほど長くは使いこまん。こういう物は廃れていく一方なのだろうな」 わずかな哀愁をこめて犬神が呟く。 相変わらず刀から視線を離さない京一の顔が、ふと陰った。 「ちょっと待てよ……この太刀……俺、どっかで見たことがあるな……犬神ッ、これ、どこで手に入れたんだ!?」 「北区の骨董屋だ」 「って……そりゃ如月のとこじゃねえか!?」 「如月? ああ、そういえば店の看板はそんな名前だったな」 「あんのヤロウ、俺が買うってあれほど言っといたのに、どういうことだッ!」 犬神の知らぬ誰かしらにそう文句を叩き付けると、京一はおもむろに視線を上げた。 「おい犬神ッ、てめぇ、どうせこんなもん持っててもよ、使わねぇだろ?」 「は?」 突然何を言い出すのかと犬神は眼を見開いた。 だが、京一は一向に相手の事情を慮ることなく、こうあることが当然とでも言うような表情で、言葉を続けた。 「俺に譲ってくれ」 「お前な……一体どういう理屈だ、それは」 「な、いいだろ?」 良いも悪いもあるか……。 心底からこの教え子に呆れはて、犬神は絶句した。 「ちゃんと金は払うしさ」 金を払う払わないの問題か、と口を開きかけ、だが、確かに自分が積極的に使う訳ではないと犬神は思った。それならば、どういう条件をつけてやろうかと、しばし思考する。 「そうだな……なら、次の中間で平均点を取れたらやろう」 「なっ、なんだそりゃああっ!? ちゃんと金払うっつてんだからいいだろ、それで」 「俺も気に入って買ったものなんでな。それくらいの条件はつけさせてもらわないと割に合わないだろう」 「冗談じゃねェッ、絶対ぇ無理だッ」 努力する前からそう断言できるほど、自分の成績に自信がないようだ。 犬神はだが、涼しい顔で煙草を吹かしながら、 「一生に一度くらい、死ぬ気で勉強してみるのも悪くはないと思うがな」 などと、心にもないことを云ってみる。 「てっめェ……人の足元見やがって」 案の定、犬神の台詞に京一は怒り心頭したようだ。 「俺は帰る」 小学生並みの拗ね具合だ。やれやれと犬神はため息をつき、机の上にあった携帯電話を彼に放った。 「それについてはもういいのか?」 「一応礼は言っておくぜ。じゃあなッ」 そのままバタンと準備室のドアを閉め、どかどかと盛大な足音を立てて廊下を走っていく。 本来の目的から、大幅にずれた結果に終わっているような気がしないでもないが、京一らしいといえば京一らしい。 「モノに宿るのは、この刀のような『陽気』だけではなく『陰気』という場合もある……と付け足したかったんだがな」 刀を元の位置に戻しながら、犬神杜人はそんなことを小さく呟く。 嵐の去った部屋の中にはもう、蝉の声すら聞こえなかった。
* とことんついてないぜ……。 *
宵が深まるにつれ、新宿に集う人の数は膨らんでいく。 その中から、たった一人を見つけ出すことは、不可能に近いだろう。 歌舞伎町の周辺をさんざん歩き回ったが、結局今泉らしき少女は見つけることができなかった。 京一は道端の植え込みのコンクリートの上に腰を下ろし、自動販売機で買ったドリンクで喉を潤した。 そろそろ高校生がうろつくには適しない時間帯になってきている。 新藤にもそろそろ連絡を入れないとな、などと思いつつも、京一は歩きつかれた体をなかなか動かせずにいた。 その時である。 プルルルル……プルルルル…… また、携帯電話が鳴いた。 「またかよ……」 今泉を探している最中にも何度か呼び出し音が鳴ったのが、京一はことごとく無視していた。 電話を取り出してディスプレイに目を走らせる。相手の番号は表示されていない。 数秒逡巡した末、京一は意を決してボタンを押した。 『(見つけたよ)』 耳元に息が掛かるほど、明瞭に囁かれた言葉。 ぞくり、と京一の肌が粟立つ。 ノイズが消滅したマイクの向こうから聞こえてくるのは、低く重い……男性の声。 先程までの電話とは、あきらかに違う。 京一の心臓が跳ねた。 脳裏に警戒信号が点滅する。 『(ほら、あそこだよ)』 くすくすくすと、押し殺した笑い声がひどくリアルに耳に流れ込む。 「何……」 思わず京一は周囲を見渡した。 飲み会帰りの集団、カップル、サラリーマン。 誰もかれもが自分の存在している小さな世界を埋めることに必死で、その蚊帳の外に居る京一には目もくれていない。 『(なあ、どうした?)』 電話の向こうからの呼びかけに、京一ははっとなった。 『(そうさ、あいつらはみんなキミのことなんか針の先ほども気にしちゃいない。自分が幸せで平和なら、それで満足さ。こいつらは自分のことしか考えていないんだ。やつらにとっちゃ、ボクらなんかゴミ箱の中のゴキブリほども価値がないんだよ。世の中、そんなもんだろ? なあ?)』 「ふざけたこと言ってんじゃねェッ……どこにいやがる……?」 『(どこ? どこにいるか、だって? ふふふ。何を言っているんだよ? ずっと……キミの横にいただろう? ようやく……キミと話ができて嬉しいよ)』 「ふざけんなッ……!」 『(ふざけてなんかないさ。キミもさがしているんだろう? あの女を……今泉ゆかり、を)』 「なっ……なんでそれを……てめぇ、まさか!」 『(ボクも探していたんだよ……彼女を)』 「どこにいやがる?」 電話の向こうの相手の目に入っているのなら、今泉ゆかりは近くにいるはずだ。 ネオンが照らす光と、その闇に吸い込まれた景色を見通すようにして京一は周囲を見渡した。 どこだ!? どこにいる!? 路地の向かい、花園神社の深い緑にさえぎられた闇に、沈むようにしゃがみこんでいる人影。 京一は弾かれたように立ち上がり走り出した。 「今泉ッ!」 車の流れが切れたところで道路を渡り、今泉のそばに駆け寄る。 「え……蓬莱寺、さん……?」 顔を上げた今泉は、薄暗闇の中でも解るほど真っ赤な目をしていた。 泣いていたのだろう。涙の跡が頬に残っている。 大丈夫かと手を伸ばしかけたところで、忌々しいあの音がする。 プルルルル……プルルルル…… 「ちっ……いい加減にしろッ」 『(殺せ……こいつは寄生虫だ……)』 「……ッ」 携帯電話が手から滑り落ちる。 ゆらり、とそれから蛇のような邪気が立ち上った。 『「(死ネ……オマエは寄生虫だ……死ね……死ね…………死ね……死ね、死ね死ネ死ね死ねェぇぇェェぇぇェェ……)」』 「あ……」 針のように突き刺さる怒りと憎しみに、今泉の身体は硬直した。 「くそ……」 携帯を切ろうと伸ばした手がそのまま固まる。 「な……ちくしょ……からだが……ッ」 空気が何十トンの重さを持ってからみつく。 それを押し返そうと抵抗する京一の身体を、ハンマーで殴られたような衝撃が襲った。 『(殺せ……こいつは寄生虫だ……殺せ……そうだ……殺せ…………殺せ……殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せェぇぇェェぇぇェェ……!!!)』 ひどい頭痛と耳鳴りが響く。 ノイズの走る視界の向こうで、今泉の震える手がペンケースからカッターナイフを取り出すのが見えた。 「や……めろ……ッ」 刃先を根元までゆっくりとせり出し、今泉は己の喉元にそれを当てた。 「ぃゃ……っ……たすけて……」 携帯のマイクからひどく落ち着いた声が響く。 最後通牒のように。 『(さよならだよ)』 刃先が少女の白い肌に吸い込まれようとしたその瞬間……。 今泉の手首を何者かの腕が掴み、ナイフを奪い取った。 不意に現れた人影は、次に旋風のような速さで地面に転がった携帯にその拳を叩き付ける。 締め付けていた『力』が唐突にかき消え、京一は自分の体を支えきれずに地面に膝をついた。 「フッ……見事にこれに化かされたようだな、蓬莱寺」 低い声を落した男の白衣の裾を、熱気をはらんだ夜風がひらりと撫でていく。 「犬神!?」 一体どこから現れたのか、咥えタバコの犬神杜人がこちらを流し見、唇を釣り上げた。 「テメぇ、俺をつけてたのか」 神出鬼没は彼の得意技だったが、犬神の出現タイミングは自分たちの様子をずっと伺っていたとしか考えられない。 助かったと感謝する気持ちより、京一は犬神のその、どこまでも理詰めの行動に腹が立つ。 感情を削いだ上に貼り付けられた笑い方も、スマートというより、すべてが計算されつくされ、一切の無駄を省かれた機械的なその動きも。 そして……その怒りの感情の中に、少なからず自分の嫉妬や羨望が混じることも。 「尾行などしないでも、解る」 京一の逆立った感情を元の位置へ引き戻すような静けさで犬神は答え、地面に潰れた携帯電話を指差した。 「『これ』の陰気の匂いは強烈だったからな」 「……何もかもお見通しだったってことか?」 「俺は事情は何も知らん。ただ……簡単な消去法で残った一つの推理があるだけだ」 ことさらに紫煙をゆっくりと吐き出すと、犬神はおもむろに、力が抜けてしゃがみこんでいる今泉へ視線を下げた。 「こうなった原因は、そこの女生徒が誰よりもよく解っているんじゃないのか?」 「馬鹿言ってんじゃねぇよ犬神ッ! 彼女は被害者だろ!?」 反駁する京一の言葉を、今泉の叫びが遮った。 「ごめんなさい……!」 鳴咽を押し殺した両手の下から、今度は囁きのような声が漏れた。 「まさか……死んじゃう……なんて思わなかったの……少し、からかって、付き合っていただけ……私の欲しいもの、全部……なんでも買ってくれたから」 「……な……んだって?」 関を切ったように彼女の口から溢れ出してくる言葉に、京一は呆然となる。 「渋谷で、声かけられて……お金をあげるから、デートしないか……って」 「援助交際……か」 「最初は、ちょっとしたお小遣いかせぎのつもりだった……割のいいバイトみたいな感覚で。……少し優しくしただけで、その人舞い上がっちゃって、なんでも買ってくれて。でも、だんだんしつこくなってきて……それで……」 「それで……どうしたんだよ」 「あんまり向こうが本気にならないうちに切れた方がいいよって友達に言われて、彼に……すごくひどいこと、言って……私……でも、死んじゃうなんて思わなかったの!」 「死……って……自殺、……とか、しちまったのかよ、そいつ」 今泉は首を振った。 「……わからない……私の家に手紙が届いたの。それにいろんなこと、書かれてあって。私といつ何したとか、何をしゃべったとか。すごく細かく……気持ち悪くて、……半分も読まないでやぶり捨ててゴミ箱に捨てて。そしたら、その日のニュースで、彼の名前が報道されてて……飲酒して車を運転してて、高速道路のカーブを曲がりきれなくて……死んだって」 「なるほど……その男の念が『化』かしたんだな」 「この電話、彼が買ってくれたものなの……通話料も、全部負担してあげるっていわれて、私が使ってた。捨てようって……じゃなければ壊そうって……何度も、何度も思ったけど……でも……怖……怖くて……出来なくて……」 それで、新藤から自分に回ってきた訳か……。 何度も何度も『殺す』と繰り返した携帯電話の声が京一の耳に蘇る。 多分、彼女は自分の利益の為に彼にひどいことをしていたんだろう。最初は純粋に金と、それに見合った付合いだけを求めていたものが、女の演技に騙されて、男は本気になった。 「このこと……新藤は知ってるのか?」 答える代わりに、今泉は首を横に振った。 「そんなこと……言える訳……ないよ……私……どうしたらいいの……どうしたら」 「ただ一つ言えることは……今さら、お前がどれほど泣こうが、喚こうが、後悔しようが、罪はきえない、」 自分を抱きしめたまま震えの止まらない今泉に、だが容赦なく犬神は冷やかな現実を浴びせる。 時間は常に一方通行にしか進まぬものだ。失った時は決して戻らず、この手からこぼれ落ちた水を拾う術はない。それは、絶望的とすら表現できるほどの事実だった。 「止めろ、犬神ッ」 京一の声が、犬神の言葉を遮った。 怒気をこめた瞳が、いまにも噴火しそうな熱を持って犬神を射抜く。 「んな追いつめることねぇだろ……俺たちには、誰かを裁くとか、そういう権利はねぇよ。……そりゃ確かに相手騙して金巻き上げるのは悪いけどよ、女に振られた男がその腹いせに復讐していいっていう道理もねぇ。こういう場合、痴話ゲンカも両成敗ってことでチャラでいいだろ」 きっぱりとそう言いきった京一をしばしの間犬神はまじまじと見詰め、それから参ったといった表情で額に手を当てた。 「まったく……お前のその強引な理論展開には頭が上がらん」 「それ、褒め言葉と思ってありがたく受取っておくぜ」 京一は土の上に膝をついたままの今泉の体を立ち上がらせると、 「へへへ。ま、そういうこった」 と言って笑った。 「ごめんなさい……蓬莱寺さん。本当に、ごめんなさい……」 泣きじゃくっていた少女の肩は、まだかすかな震えが止まらなかった。 京一は制服のポケットからハンカチを捻り出すと、彼女の素足についた土を払い落としてやる。 「今泉さ、……それは、俺たちに言う台詞じゃねえだろ? ちゃんと、そいつに言えるよな?」 返事の代わりに、今泉は強く頷いた。 ようやく一件落着と相成りそうなところだったが、そうそう簡単に終わらせてはくれないのが世の中の仕組みであるようだ。 犬神は風上から流れてくる不快な陰気の匂いにかすかに眉を顰める。 「蓬莱寺……どうやら、厄介な連中が集まって来たようだな」 「何?」 気がつけば、闇の中に十数組の紅い瞳が浮遊していた。 低く獰猛な唸り声が、不快なハーモニーを奏でながら、暑くうねる夏の空気をゆるがせる。 狂暴化した野良犬と野良猫の集団が、彼らを囲んでいた。 「どうやら、この陰気の匂いに感化されてしまっているようだな」 「くそッ……今泉、お前、走れるか?」 「えっ、はい……大丈夫、です」 「んじゃ、ここから全速力で逃げろ」 「え……っ? で、でもっ、蓬莱寺さんたちは……」 「なあ今泉。お前さ、新藤のこと、本気で好きなのか?」 突然、京一はそう訊いてくる。冗談ではない。至って真面目な顔だ。 その真摯な表情に気圧され、今泉は息を呑んで肯定の返事を首の動きで返した。 「……新藤のヤツさ、すげえ心配してたぜ。俺が言うのもなんだけど……あいつ、いい奴だからさ。あんまり、心配させないでくれよ……な?」 「解った。私……これ以上、迷惑、かけられないよね……」 「ま、俺らも無理しねぇ程度にちょこっとばかり時間かせぎするだけだからよ」 「……人を、呼んでくるから!」 頬の涙を拭いとり、そう言い残して今泉は駆け出す。 視界から消えた少女の背中を確認し、京一は木刀を構えた。 「さァて、と」 一歩。また一歩。 獣どもの唸りはより一層獰猛な響きを帯び、自分たちの方へ近付いている。 「五匹」 唐突に、背中の犬神が言葉を発した。 「何?」 「お前は最低五匹倒せ。後は俺が始末する」 「……って、やけに自信たっぷりだな、犬神。大丈夫なのかよ」 木刀を常時装備している京一はいいとして、犬神は武器になりそうなものを持っている様子はない。 不信な表情で京一が問うのを、犬神は一蹴した。 「お前の方こそな」 「けっ、人を甘く見るんじゃねーよ。半分は倒す!」 「無理はしないと云っただろう」 「うるせぇな。無理なんざするか。てめーこそ、んな大口たたいて俺の後ろでくたばんじゃねーぜッ」 「ああ」 犬神は短くそう答え、咥えていた煙草を手へ移した。 彼の手の動きに合わせ、立ち上る白い煙が空気を一文字に切り裂く。 「久しぶりに……腕ならしといこうか」 薄く笑った犬神の唇の端から覗いた鋭い牙のような犬歯が、惨忍な光をはね返した。 *
闘いは、ものの二分で決着がついた。 この騒ぎを聞きつけた野次馬か、今泉が呼んだ人間かは解らないが、こちらに近づいてくる複数の靴音と声がする。 「見つかると面倒だな。蓬莱寺、人が集まってくる前に行くぞ」 「解ってるって」 二人は、ひとけのない暗がりへ向かって走り出した。 裏道を縫って丸の内線の西新宿の駅前まで来ると、さすがに京一の足は根を上げた。 「ストップ」 切れ切れの息の下から叫び、そのまま近くのコンクリートブロックの上に尻を預ける。 夜とはいえ、気温は三十度に近い熱帯夜だ。 滝のように流れる汗で、制服はすでに湿り気を帯びている。 「あっちぃぃぃぃぃッ」 風のない空気は澱のように淀どんでいた。 扇ぐ道具もないので、京一は衿を持ち上げてパタパタと上下に揺らせている。 犬神の方はといえば、憎たらしいくらいの涼しい顔で、一休みとばかりにさっそくタバコに火をつけた。 しかし、それを半分も吸わない内に、犬神は土に汚れた上に敵の爪に引き裂かれ、使い物にならなくなった白衣を脱いでゴミ箱に放る。 「ここまで来ればもう十分だろう。俺はそろそろ行く。じゃあな蓬莱寺」 相手の肯定をまたずそれだけを口にして、犬神は京一に背中を向けた。 「ちょっと待てよ、犬神ッ」 「何だ」 「俺、風呂入りてぇんだけど」 「風呂? 自分の家で入ればいいだろうが」 「落合の方まで歩いて行けっつうのか、こっからッ」 落合は中野区と新宿区のちょうど境目の住所である。京一の実家はそこにあり、確かにここから徒歩で行くとなると、大分距離があった。 「歩かなくとも、電車もバスもある」 「金がねぇんだよ、金がッ。大体、てめぇん家の方がこっから近いじゃねーか」 結局、京一に強引にそう押し切られた犬神は、自宅のアパートで風呂を沸かす羽目になった。 京一の後にシャワーを浴びて犬神が出てくると、卓袱台の上にはどこから掘り出したのか、インスタントラーメンの空き袋が転がっていた。 勝手に台所を使って腹を満たしたらしい京一は、部屋の中のタンスを手当たり次第に漁っている最中だった。 「勝手に人の家を荒らすな、蓬莱寺。お前は空き巣か」 「誰が空き巣だッ、人聞きの悪ィ」 京一はむすっとした顔で引き出しを閉めると、犬神に向き直った。 「消毒液とバンソウコウを探してんだよ。テメーの家は救急箱もねぇのか」 必要最低限度しか家には置かないという主義らしい犬神のリストの中には、そんなものはもちろん並んではいなかった。 それに、よほどの怪我でもない限りその必要を感じたことはない。もし手当てをしなければならない程の怪我の場合は医者へ行く。 「特に必要がないから置いていない。……何処か怪我をしたか?」 犬神が問うと、相手からは「あ、まァ……ちょっと、な」などと煮え切らない返事がある。 「見せてみろ」 と正面に回り込むと、京一の目が少し驚いた感情を映した。 「てめぇも血、出てるじゃねえか」 「血?」 「右顎の下の方」 言われて拭うと、確かに指先が赤い液体で汚れた。ごく浅い傷なのか、撫でても痛みは全く感じない。洗面台の鏡も覗かなかったので気付かなかったのだろう。 「しゃーねぇな……犬神、ちょっとしゃがめよ」 言われて素直に身をかがめる。その傷の上を、京一の舌が這った。 何をされたのか、と、一瞬犬神の頭は真っ白になる。 「浅いし、舐めときゃ、すぐ治るだろ」 だが、当の京一はといえば、顔色も変えずにさらりとそう言い放つ。 「蓬莱寺……お前、何時もそういうことをしているのか」 「悪いかよ」 そう言いながら、京一は自分の左腕を顔の前に持ってくる。 傷の上に京一の舌が付く前に、犬神は彼の腕を掴むと、傷上に目線を走らせた。 犬か猫の爪にでもひっかかれたらしく、そこには十センチほどの爪痕が数本走っていた。血は止まっていたが、赤く腫れている。 「他は?」 訊ねながら犬神の視線は京一の体を見、 「足にもあるな」 としゃがみこみ、踝から膝にかけて無数にある切り傷に手をふれた。 「まったく……無理はしないんじゃなかったのか」 「カスリ傷だろーが、カスリ傷ッ」 犬神は京一の傷に顔を近づけた。 「なるほど、さすがにここまで盛大だと絆創膏ではおいつかんな」 そのまま彼の舌で肌を上までなぞられて、京一の身体は硬直した。 犬神の唇が肩口の辺りに優しく触れる。 「〜〜〜っ、どっ、何処なめてるんだ、テメエ!」 「手当てだ」 「嘘つけ」 「先に俺に火をつけたのはお前の方だろう」 狂った光が瞳の中で揺れる。 犬神は目を細めると、相手の耳元に囁くように問い掛ける。 「止めておくか?」 「っ……心にもねぇこと言ってんじゃねェ。勃ってんだろーがっ」 自分の理性の糸を切るのは、いつだってお前の方だと、犬神は思った。本人に自覚があるかどうかは解らないけれど。 肌に吸い付いく唇に、京一の身体も反応している。 照れと怒りをごちゃ混ぜにしたような顔色で、京一は自身の吐息をねじ伏せた。 「変わりにあの刀は俺のもんだ」 「随分と高価くふっかけたな」 苦い笑いを浮かべて、犬神は相手の唇に触れた。 そのまま間を割り、舌を絡ませる。 「妥当だろ……んッ」 シャツの下から節くれた指先が侵入してくる。硬い指頭が乳首に触れた。 犬神の膝が両脚の間を割ってきて、下着の間から片腕が滑り込む。 かき回された中心が熱を孕んだ。上昇する温度が神経の末端に染み渡る。 身体中が狂ったように熱い。 目眩がする。 制御できない悦楽に背中が反った。 縫い付けられるように床に押さえつけられた身体とは正反対に、意識は天井を越えて昇って行きそうだ。京一は浮遊していく己を繋ぎ止めようと、相手の肩にしがみつく。 押し寄せる波のように断続的な鈍い痛みが、やがて弾けるような快感へ変わる。 「い……ぬがみ……ッ」 愉悦の喘ぎが相手の激しいキスに吸われていく。 そして、淡い月光の中に囚われた二つのシルエットは深い闇に沈んでいった。 *
八月半ばの登校日。 相変わらず補習が終わらないらしい京一は、マリアが「Good bye everyone」と言い終わって教室を出ても、机の上にへばりついたままだった。 「コラ、京一、いい加減に起きろッ!」 小蒔に小突かれて、やっとこさ身を起こした京一は、寝ぼけたままの充血した目を辺りにむけてから、「もう終わったんだろ」と呟いて再び腕の中に顔を埋める。 「もーっ、キミに会いたいって人が教室の前に来てるんだよっ! さっさと起きろッ!!」 今度は小蒔も容赦がなかった。 拳をグーに握り締めると、そこに熱い息をはきかけ、勢いをつけて相手を殴り付ける。 ガタンと盛大な音をたてて、京一の身体はリノリウムの床に転がった。 「痛ってぇぇェッ!!! 何すんだこの凶暴女ッ!」 背中をしたたか打ちつけた京一が大声で喚いた。 しかしすでに習慣となった失礼な言葉を使った抗議に、小蒔は全く動じなかった。 「外。A組の新藤クンが来てるよ」 「え? 新藤が?」 背中をさすりながら半身だけを起こして見ると、ガラスの向こうに新藤の姿が見えた。 合図の意味で軽く片手を上げた京一の背後から、 「ヨダレくらい拭け」 と冷静な小蒔のツッコミが入る。 「うっ、うっせぇな」 尻ポケットから出したくしゃくしゃのハンカチで口元を拭きとり、机の端に手をかけて立ちあがる。 「今から、ちょっといいか、京一」 「悪ィ、部活にはちょっと出れねぇんだけど」 「違うよ。校門の前にゆかり……じゃなくて、今泉さんが来てるんだ。京一に、礼が言いたいって」 そう言われて校門の前までくると、西校の制服に身を包んだ今泉が、こちらに気づいてぺこりと頭を下げた。 「こんにちは」 最後に見たときより、数倍も明るい笑顔だった。この顔が彼女本来の姿なのだろう。 「もう大丈夫そうだな」 「はい。もう一度、ちゃんとお礼をいいたくて。本当に、ありがとうございました」 「すまん、京一。もっと早くにちゃんと礼を言おうと思ってたんだけどさ、機会がなくて」 二人にそう言われて、京一は例のごとく照れながら頭を掻いた。 「いいっていいって。ま、いつも俺がオマエに迷惑かけっぱなしだからな。へへへ」 「へええ……京一が人から感謝されてら。世紀末だな。何したんだよ。まさか二人の愛のキューピッド役とか?」 突然、京一の背後からそんな野次馬の声が飛んだ。 振り返ると、鞄を下げたクラスメイトの緋勇龍麻が立っている。 さらに彼の背後から、体格のいい大男がぬっと顔を覗かせた。こちらは、同じクラスの醍醐である。 「愛のキューピッド役? 京一には似合わんな、それは」 「あはははは。確かに、京一は橋渡しっていうより、橋を壊しちゃうのがオチだよね」 ダメ押しに、先ほど京一を叩き起こした桜井小蒔が言い放つ。 「てっ……てめえら、束んなって好き放題勝手に言ってんじゃねぇっ!!」 沸騰した京一が木刀を振り回し、緋勇と醍醐と小蒔は、彼の怒りがさらに加速されるのを承知でひらりと身をかわすと、それぞれにからかいの言葉を口にする。 その四人の様子を見ていた美里葵は、久しぶりに聞いた仲間たちの変わらないバカ騒ぎにくすくすと笑い、本当に今日も平和ね、と心の中で呟いたのだった。 |
Web初掲載:2000/06/22 |