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 !  必 読 事 項





犬神/京一
執筆:ナツ
三人称
スクロールする前に必ず ココ を読んでね。

黒い月

 生物準備室のドアを少し開いたとたん、白衣の裾が視界の端にちらりと過ぎる。
 まさかと思って顔を上げたその先で、蓬莱寺京一は犬神杜人が辞書を片手に書き物をしている様子にぶち当った。
 犬神の机の上には相変わらず本や紙束が前衛的なオブジェよろしく絶妙なバランスでそびえ立ち、二つある灰皿には、数十本の吸い殻が山となっている。
 そして、黄ばんだマグカップの中には冷えたコーヒー。
 一瞬前まで、この部屋の主が居ないことを期待していた……というより絶対ありえないこと、などと何の根拠もなく信じていた京一のお気楽な気分は、それを確認したとたん、一気に萎んでゆく。
 京一にしては珍しく、自力で解いた課題を提出しに来たのだ。
 これだけ苦労をしたのだから、次には幸運が舞い込んでくるだろうと安穏と考えていた一瞬前の己に嫌気がさす。
 たとえ自分だけの力で完成させたとはいえ、課題の提出期限はだいぶ前にオーバーしていた。その上、下校時間もとっくにすぎたこんな時間にこそこそと提出しに来たとなれば、犬神の口から厭味や小言が一つ二つ付け足されるのは想像に難くない。
 元はといえば説教をくらってしまうすべての原因は京一自身が作っているのだが、三歩歩けばそんなことなどキレイに忘れてしまう彼にとって、このテの小うるさい教師は最も苦手とするものだった。
 その上……この犬神杜人と自分とは、絶対公にできない関係……つまりは、肉体関係がある。
 一応合意という形をとっての交渉だったが、だからといって相手を好きかと問われれば、京一は間髪をいれずにはっきりと『気に食わない』と言い切ることができた。
 第三者的に言って、昼寝が趣味で自分の身なりに頓着がなく、独身主義という犬神は、生徒の教育に熱心な教師には見えない。
 そのくせ、いざとなればその妙な鼻の鋭さで事件の核心を探り出し痛いところをストレートに突いてくる。
 その『痛いところ』を大量に抱えている京一にとって、犬神という存在は鬱陶しいのだ。
 では何故、そんな相手と寝たのかと問われれば、答えにつまる。
 それでもまだ男と女という立場だったなら、明確な理由などなくても、雰囲気と勢いにのまれて成り行き上セックスの相手をした、の一言で第三者は納得してくれるだろう。
 だが、自分たちの場合、そのケースにはあてはまらないのだ。
 なぜならば、相手は男で……そして、自分も男、だからである。
 自分には同性を好きになる性癖はないし、確かめたわけではないが、それは相手も多分同じだと思う。
 ――――なのに、どうして。
 それは今までも、何度も何度も己に問いてきた言葉だった。
 なら、どうして――この男と寝た?
 身も蓋もない言い方をすれば、理性が無くなるほどの快楽に負けた、というのが一番近い答えだろう。理性が自分の欲望を押さえることができなかった、というのが。
 十六年生きてきた京一だが、他人と比べてどうかは不明だったが、女性とのそういう経験は乏しいと云えた。
 セックスにだけ興味がある時期は、友達に毛が生えた程度に付き合っていた女の子と身体を触れ合ったりしたことはあったが、なぜか罪悪感の方が先に立ってしまい、結局最後までは出来なかった。
 映画やドラマのように、己の命すら懸けてまで人を好きにならなければいけないとは微塵も思っていないし、少女めいたロマンチズムだとは自分でも思うのだが、結ばれるのなら心から好きだと云える相手とが良い。
 漠然と胸に持っていたそんな思いを吹き飛ばし、破壊しつくすほどの獣の本能が、自分の中に眠っていた……答えを出すならば、そうとしか言えない。
 そんな自分の本性を引きずりだした相手が、ここに居る。
 今の状況を分析すればするほど苛ついた気分になり、それを吹き飛ばすようにして、京一は音を立ててスライド式のドアを中に押し込んだ。
 その音でようやく、犬神は人の気配に気付いたのだろう。大袈裟に思えるほどゆっくりと上体を起こした。
「ああ……蓬莱寺か」
 無表情なその声とともに、濁った色の双眸が気だるげに京一を射抜く。
 底のないブラックホールに吸い込まれていく光のように、その中に自分の意識が呑み込まれていきそうになる。
「2−Bの課題の束はそこだ。上に重ねておけ」
 だが、互いの瞳が重なったのはほんの瞬きの間だけで、犬神はすぐに書類の上に顔を伏せた。
 一切の無駄がなく、そう簡潔に用件を口にしたその相手の動作に、京一は自分への拒絶を感じてうろたえた。
 そのショックからか、京一はまるでその場に縫い付けられた人形のように動きを止めている。
「……くそッ」
 そんな些細なことで動揺してしまった自分が情けなく、誰にも聞こえないくらいの囁きで京一は悪態をついた。
 犬神の……この男の野生的な部分と理性的な部分のひどいアンバランスに感覚がついていけない。
 そのポーカーフェイスの下で一体何を考えているのか。
 氷の湖面のような揺らぎのない男の表情を、京一は視線でなぞった。
 不意に、その仮面の冷たさを割るようにして、火傷しそうなほどの熱をはらんだ口付けの感触が唇の上に鮮やかに蘇る。
 巻かれた糸をたぐるようにして、息をつく間もなく、男に貫かれた悦楽の残響が脳裏に絡み付く。
 意志とは関係なく再生される夜の記憶に、カッと血が上った。
 心臓が弾けそうはほどに鼓動を繰り返す。
 やっぱり一人でここに来るんじゃなかったと、今更ながら京一は後悔した。
「どうした蓬莱寺……何を突っ立っている?」
 入り口から動く気配のない京一に犬神は再び目を向ける。
 あくまでもクールを押し通す彼の声を聴くだけで、京一は無性に苛立ちを覚えた。
 自分一人だけが無駄に焦っているようで、勝ち負けの世界ではないと判っているはずなのに、どうしようもないほどの敗北感にさらされる。
「蓬莱寺?」
 相変わらず固まったままの京一を眺め、問い掛けの声に不安が混じった。
 京一はのろのろと歩き出した。机の前まで来て、B組のレポートの束の上に自分のものを重ねる。
 犬神の眼は、今度は京一を追いかけてきた。
「どうした? 何か俺に言いたいことでもあるのか?」
 見上げるような格好で覗き込む犬神の口の端が挑発的に弓を描く。
「ねぇよ、そんなもん」
 京一は好戦的な表情で相手を煽るように睨んだ。
「どうだかな」
 糸のように細くなった光彩が、まるで二つの黒い月のように自分の闇を照らしていると思った。
 火花のような目線が感情を攻めたてる。
 狂気を縫い付け、深く眠る自我を呼び覚ます。
 喉元に牙を突きつけられて。刃を心臓の上に突きつけて。
 己の暗いところを……まるで心臓をつかみ出されるように引きずり出されて。
 ――――怖い。
 怖い?
 何を……何で?
 犬神……を?
 冗談だろう、と京一は思った。
 なんでこの男に、自分がここまで翻弄されなければいけないのか。
 火花のように散る闘争心が官能を刺激する。
 こんな感情を、一体何と呼べばいいのだろう。
 獣のごとき欲望。恋のような昂揚。憎悪の怒り。愛に似た執着。
 ベクトルの定まらない強烈な力に揺さぶられて、衝動的に、京一は身体を動かした。
 犬神のシャツの襟首を掴み取り、そのまま机ごしに唇を奪った。
 驚きに見開かれた相手を射抜きながら、浅い口付けを数度重ねる。
 唇を割って舌を入れる。犬神の手が京一の顎を引き寄せた。
 舌を絡ませ口腔を撫でると、噎せ返るほどの苦い煙草の香りが肺の中に流れこむ。
 思う存分相手を堪能して、京一は唇を離した。
 荒い息のまま、わずかな距離を保ったまま相手を捕らえている。
 唇の端からこぼれた唾液を、犬神のざらついた舌がすくいとった。
「何があったか知らんが……気は済んだか」
 口元を綻ばせた犬神が訊いてくる。
「……ムカツク」
 京一がぽつりと呟く。
 無言でいるのも限界だった。
「すかしたカオしてるんじゃねェッ」
「なら、どういう顔をすれば良い」
 怒鳴られた犬神は、わずかに眉をしかめる。はっきりと困惑の色があった。
 鉄壁の壁を崩した……馬鹿みたいだが、そんな満足感が指先にまで染み込む。
 京一は、掴んでいた相手の服から手を放した。
 未来のないあまりにも不毛で曖昧なこの関係を、断ち切りたいのか繋ぎとめていたいのか。
 何処にたどり着きたいのか。
 束の間、そんなことを考えて……
「止めた」
 と、突如として京一は思考を止めた。
 どう取り繕って言おうが、セックスはセックスだ。ただ一つの頂点を求め互いに貪りつくすだけの動物的な行為。だだそれだけ。何が減るものでもない。そう、そんなものの一つや二つの為に自分がウダウダと悩んでいる理由なんてない。
「何を言っている?」
 唐突すぎる京一の行動に追いつかない犬神は、ますます渋い表情になった。
「今更ああだこーだ言っても始まんねぇし、俺はやりてぇようにする」
「それは、今更俺に敢えて言うことか? お前は何時もやりたいようにやっているだろう」
 犬神は苦笑した。
「やっぱそーだよな? うん、そうそう」
 すっかり機嫌を直した京一は、つい先ほどまでの曇り空が嘘のような晴れた笑顔になる。
 目の前の問題を解決した……というより、ダンボールに詰め込み蓋をして、空いている場所に適当に放り込んでそのまま忘れることにした……ら、京一は自分の腹が大分減っていることに気がついた。
「んじゃ、俺は帰るぜ」
 そのまま犬神に背を向けると、その頭はすでにもう、己の幸せを追求するために動き出していた。
 準備室のドアを開けて廊下に出ると、さっそく「やっぱ放課後はラーメンに限るよな」などと気合を入れた京一は、自分の寄り道に付合わせる相手を物色しはじめる。
 台風一過の後で、まるで狐につままれたような顔をした犬神は、のろのろとした動作で、しんせいの箱から新しい一本をとりだした。そして、大きな溜息を吐き出しながら火をつける。
 ゆっくりと息を吸い込み、彼のさまざまな想いが溶け込んだ紫煙は長い長い尾を引きながら、天井の上に溶けていった。

Web初掲載:2000/06/28
Web再掲載:2000/12/01



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