[ T O P ]

 !  必 読 事 項





犬神/京一
執筆:ナツ
スクロールする前に必ず ココ を読んでね。

休日

T

 青白く力強い星の瞬き、老いた星の錆ついた光、恒星、星雲……歓楽街の赤いネオンサイン、路地の街灯。
 夜は実にさまざまなものを吸い込み、融合し、混沌として俺の前に横たわっていた。
 夜が闇を忘れ、人に埋もれて呼吸を止めている場所が、この地球上になんと多くなったことか。
 それでもほんの少し前までは、都会のまばゆさにスライスされた闇の破片の底に、へばりつくようにして息を潜めて暮らす物の怪たちの息遣いが感じられたものだが、今はそのわずかな気配すら無くなってしまった。
 窓を開けて、その縁に腰を下ろし、俺は煙草に火をつける。
 名もない路地の突き当たりにある安普請のアパートの二階の部屋だが、高台の方に建っているせいか、意外と見晴らしはいい。
 そこから眺める街は、深夜の一時を過ぎたところだというのに、一向にその熱が沈める気配はなかった。
 東京の心臓に脈打つ人間どもの欲望は、この地……新宿で毒々しい花を咲かせている。
 相変わらず、俺の部屋の中に明かりはなかった。
 火をつけた煙草の先だけが、赤くぼんやりと闇の中に浮かび上がる。
 光も好きなものではなかったが、ギトギトとした外の空気はそれ以上に俺は苦手だ。
 研ぎ澄まされた聴覚や嗅覚に、否応なしに流れ込んでくる音や匂いは頭痛を催す。
 ベットで眠っている人物が未成年であるのと、全国大会に出るくらいの腕前をもっている剣道部の部員なので、締め切った部屋の中に煙草の煙を充満させるのは気が引けて、こうしてホタル族を気取ってみているのだが、どうやら長くは続きそうにない。
 俺は外へ向けて煙を吐き出し、そばにあった灰皿……といっても、中身を飲み干したカンコーヒーの缶なのだが……を引き寄せて灰を落した。
 風が吹き、ふわりとカーテンが揺れた。
 真夏の深夜の空気は、からみつくような昼の暑さを残している。
 その熱と身体に残る熱とに、頭の芯が痺れる。
 窓から部屋の中に月光が差しこみ、ベットに横になっていた男を照らしだした。
 淡い光の部分だけが浮かび上がり、影の濃い色は部屋の闇に溶け込んでいる。
 微動だにしなければ、青味を帯びた月光のせいで、男の肌はプラスチックのそれに見える。
 まるで、精巧にできたマネキンのような……。
 そのとき、毛布に包まってこちらを見た彼の顔が動き、険のある表情をつくった。
 ドールにはない熱が宿ったその目に、俺の馬鹿な妄想は霧散する。
「温度あがるだろ、犬神」
 窓しめろよ、と蓬莱寺の言葉が続く。
「五分くらい待てるだろう」
 俺は答えて、溜息とともに紫煙を吐き出した。
 エアコンの温度は肌寒さを感じる位の低い位置に設定している。
 少し外の空気が入ったところで、あまり変わらないだろう。
「ったく、よく吸ってられるよな、タバコとか。中毒みてーなモンだろ? 四六時中咥えてなきゃいけねえし……鬱陶しくねぇのか?」
「フッ……鬱陶しい、か……」
 なかなか面白い。
 蓬莱寺にはそう見えるのか、と俺は、
「おまえの木刀のようなもんだ」
 そう、相手を揶揄するように応酬した。
「俺のとてめーのを一緒にすんな! いっとくけどな、俺のは金もかかんねーし健康にも悪くねェんだよッ」
 たとえそんな違いがあっても、四六時中持ち歩くという点で鬱陶しいのは同じだろう。
 そう思いはしたが、反論するのも馬鹿馬鹿しいので、口をつぐむことにする。
「大体、なんでんなもん吸ってんだよ」
「なんで……といわれてもな……」
 相手に訊かれて、俺はすぐに答えを口にすることができなかった。
 大体記憶というものは、それが日常的に習慣になってしまったものになればなるほど、その始まりは薄まっていく傾向にある。
 ハサミや缶切りを使いたいと感じた時のことを訊いているようなものだ。
 何時、どんな理由でこんなものを吸いはじめようと決めたのか、理由はもうよく思い出せない。
 最初は誰かに誘われて、ただの好奇心から、だったような気もするが。
 錆付いた記憶の歯車を回すのは、骨が折れる。
 もちろん、最初は美味くもなんともなかった。だから、その時に止めようと思えば止められたはずなのだ。
 手放せなくなったのは、多分――。
 もともと俺は、身体を動かすような趣味があったわけでもない。何かに夢中になるといったことが不得意な質だ。
 本当の意味での仲間と呼べる者も、もう居ない。
 そのせいもあるのだろう……この心に穿たれた穴を、他のもので埋めることが、どうしてもできなかった。
 何かをしていないと気が狂いそうだったその時、俺には何もなかった。
 そして、何かをしているという気持ちにさせてくれるような手軽なものを探したあげく、煙草(これ)に落ち着いたと言う訳だ。
 云っていて、我ながらその虚しさに、今更ながら笑いがこみあげてくる位なのだが。
 ……そういう、理由だ。
「そうだな……退屈を紛わせるのが、これしかなかったからかも知れんな」
 実際に口に出した答えは、その一言。
「んだよ、それ……」
 蓬莱寺の声は納得してはいなかったが、かと云って彼に全部を説明する気には、やはりなれない。
 俺は言葉を押し殺したまま、吸い終わった煙草を灰皿に押し込み、窓を閉める。
 そして鍵を下ろしカーテンをかけると、部屋の中は元どおりの、静かな闇に戻った。

 
U

 意識の奥の深いところで、音を認識していた。
 心地良くもなく、かと言って悪くもない。
 日常が産み出す、実に平凡な音だ。
 テレビから吐き出される無意味な言葉のざわめきや、廊下を歩く不規則な靴音、キッチンで燃えるガスの炎の囁き、蛇口から溢れる水、戸棚を開け閉めするリズム、バイクから吹き上がるエンジン。
 さまざまなものが溶け合った雑音が、流れるように耳に届く。
 それを聴きながら、もう朝なんだろうなと、頭のどこかで認識してはいたのだが、起き上がる気には、とうていなれない。
 夏休みに入ったばかりの時期だ。
 補習のない日くらいは、ゆっくりと布団の中で休んでいたい。
 朝は苦手だ。
 と、何度目かの寝返りをうった時。
「犬神ッ! てめぇ、何時まで寝てるつもりだッ!!」
 威勢のいい声が頭上から降り注いでき、俺は薄く目を開いた。
 太陽の光がひどく眩しく、数度瞬きを繰り返す。
 と、既に着替えた蓬莱寺が、ベットの側に仁王立ちしているのが視界に入った。
「……何だ……」
「十時だぜ、十時!」
「十時……? まだ早いだろう」
 休みの日なら、俺は大抵午後まで寝ている。
「な・に・が・早いだッ。とっとと起きろッ」
 だが、二度寝させる隙を与えられずに、横から布団を引きはがされた。
 仕方なくのろのろと身体を起こしたが、いかんせん寝起きは悪いので、俺はそのままベットの上で、長い長いあくびをひとつする。
 目をこすりこすり、どうにか現実世界を認識していくと、キッチンの方から味噌汁の匂いがすることに気付いた。
「……まさか、お前、ひょっとして……何か作ってたのか?」
 俺は思わず相手を見上げる。
 蓬莱寺が料理する構図、だと?
 それを頭に思い描こうとして、挫折する ……まったくもって想像範囲外だ。
「んだその目は? 飯と味噌汁と卵焼きくらい誰だってできるだろーがッ。大体、てめーの冷蔵庫の中、なんだよあれ。一月前の納豆とかヨーグルトとか、とっとと捨てろ! なんか菌の研究でもしてんのかよ」
「ああ、ゴミの日をよく忘れるもんでな……」
 寝起きの頭の処理速度は、俺の場合かなり遅い。故にそういうことを思い出した時は後の祭り、という訳だ。
 だが……そういえば、冷蔵庫の中にあったという納豆とヨーグルトは、一月前に蓬莱寺が自分で食いたいだの云い出して買ってきたものではなかったか?
 ……思い出せん。まだ意識がはっきりしていないようだ。
 顔を洗ってくるようにと急かされ、そのまま着替えて食卓につく。
 埃をかぶって立てかけられていたままだったテーブルが何時の間にか磨かれており、その上に二人分の朝食が乗っていた。
 飯と味噌汁はさておき、卵焼きの形はいびつだったが、焼き加減はちょうど良い。
 そういえば、神夷も家事全般が不得意な男だったから、案外蓬莱寺がやらされていたのかも知れないな。
 とりとめもない想像をしながら箸を運ぶ。
「犬神、ちょっとスーツ貸してくれよ」
 突然蓬莱寺がそんなことを言い出した。
「スーツ? ……別に構わんが……何をする? 結婚式でもあるのか?」
 どういう風の吹き回しで料理なんかをしているのかと思っていたら、そういうことか。
「違ェよ……へへへ。なあ犬神、ちょっと今日つきあえよ。どーせ暇なんだろ? 夏休みだし」
 確かに、俺の予定が入っているということの方が滅多にない。
 が……
「どうせ下らんことでも企んでいるんだろうが。いい加減にしておいたらどうだ」
「てめェな! それが朝メシつくってやった人間に対する態度かッ」
「俺が頼んだ訳ではないしな」
 素っ気なく答えると、
「んだと、このォォォ! 変態エロ教師がッ!」
「怒鳴るなら怒鳴る、食うなら食う。両方するな」
「るっせえ。とにかく、つきあえっつたらつきあえッ」
 断固とした口調で、蓬莱寺が云った。
 そして結局は、スーツに着がえた蓬莱寺を助手席に載せ、俺は車を運転するはめになる。
 感覚というのは、慣れてしまえばいくらでも麻痺するものなのだろう。
 最初の頃はどんなに言っても俺の家に居着くことはせずにすぐに帰ったものだが、この頃はこういう風な会話をするのが普通になっていている。
 不思議なもんだ。
 俺の正直な気持ちとしては確かに嬉しいのだが、その反面ひどく怖くもある。
 失うことになるいつかの未来を、いつもこの現実の傍らで想像してしまう。
 どこに行くのかといぶかしく思いながら、蓬莱寺の云う通りに上野へ向かう。
 駅前の駐車場に車を止め、車を降りて、それからしばらく歩く。
「おっ、ここここ」
 弾んだ声で言って、蓬莱寺が指さしたところを見上げる。
 ピンクを中心としたやたらと派手な色で描かれた看板が、まず目に入る。
 そこに書かれてあるイラストは女性。それも、服を着崩し、肌の露出度が激しいヤツだ。
 タイトルの文字は……それから押して知るべし……。
 端的に言えば、いわゆる成人指定のポルノ映画を上映している映画館、という風になる。
 俺は軽い頭痛を覚えた。
 まあ……そんなことだろうとは予想はついていた……ついていたのだが……。
「これなら正々堂々と中に入れるだろ? なんてったってセンセーと一緒なんだからよ」
 ……コメントのしようがない。
「一回入ってみたかったんだよなァ」
 目を輝かせている蓬莱寺の横で、俺は溜息をついた。
 それでも、一時間だか二時間だかの付合いだと、俺は諦めて券を買い、中に入る。
 だが……あまりのくだらなさに5分で見る気を無くし(内容を説明する気にもなれん)、俺は無意味な映像をシャットダウンすべく目を閉じ、暗がりとエアコンの中でゆったりと睡眠をとることを決意した。
 次に目を醒ましたのは、蓬莱寺の声でだった。
 見渡すと、スクリーンにはエンドロールが流れ終わった後で、すでに場内は明るくなっている。
 入替え制らしいので、そのまま館を出て再び車に乗りこむ。
 ニコチン切れで苦しく、ハンドルを握りながら煙草を一本咥え、火を付けるのももどかしく紫煙を肺に吸い込んだ。
 隣にいる男は、自動販売機で買ったコーラをすすっている。
「なあ……マジで女に興味ねぇのかよ?」
 あまり機嫌がよくないようだな、と思ったとたん、蓬莱寺が突然ぽつりとそんなことを呟いた。
「ただ女だからというだけでは興味は涌かん」
 と、俺は答える。
「大体、人類の二分の一すべてに興味を持てと云う方がどうかしているだろう」
 女だとか男だとか、そういうカテゴリだけで人を愛せるのなら、苦労はしない。
 もっとも、たとえヘテロであろうとホモであろうと、正直云ってポルノを好きこのんで見るような趣味は、俺にはないが。
「そうかぁ……ま、確かに、二分の一ってのは無理だよなァ。俺もせいぜい、許容範囲は三十までだし」
 どういう風に納得したのか解らないが、蓬莱寺が感心したように云った。
 根本的なところが何かずれているような気がするが……あまり深く突っ込まない方が無難だろう。

 
V

 駐車場に車を止め、バックシートを振り返った。
 疲れていたのか退屈だったのか、蓬莱寺はそこで横になって寝息をたてている。
「蓬莱寺、起きろ」
 と呼ぶと、重たそうな瞼が半分開く。
 映画を見た後は横浜八景島シーパラダイス、さらにフランス料理にまで付き合わされた。
 金を持っている方が何かを奢るのは当然、という強引な相手の理論により、当然金を払ったのは全部俺だ。
 赤貧の高校生に払わせる気は毛頭なかったとしても、この男の強引さには少々問題がある。
 しかし、なんというか……映画館に遊園地にディナーと並べると、まるでデートの定番コースのようだ。
 第三者が見ると、保護者と子供にしか写らないのだろうが……。
「制服に着替えたら、駅まで送っていく」
 欠伸しながら上体を起こした蓬莱寺が、シートの間から顔を覗かせた。
「何時?」
 俺は腕時計の針を確認する。
「十時すぎだ」
 高校生がうろつくのはさすがに遅い時間だろう。
「十時か……今から帰るの面倒だし、泊ってもいいだろ、犬神?」
 そう言って、相手は俺の返事も待たずに、さっさと車から降りて行く。
 蓬莱寺は家族と一緒に住んでいるのだが、遅くなるからとか外泊するからといって、家に連絡を入れる姿を、俺は見たことがない。
 放任主義なのかとも思ったが、どうやら、それ以上に蓬莱寺の家は特殊だ。……数年の間、神夷の元で修行させることを承諾したということからしても、そのことは十分想像に難くないが、彼が数日連絡もなく家に寄りつかないからといって、格別騒ぎ立てることはないらしい。
 らしい、というのは、詳しいことは本人に聞いても話たがらないので確認しようがないから、なのだが(まさか担任でもないのに家庭訪問をするわけにもいくまい)、確かに、彼がいくら無断欠席で家出状態だろうが、両親から学校に連絡が入ったことは一度もなかった。
 事情はよく解らないが、蓬莱寺自身も家には寄り付きたくないように見える。
 どうせここで俺が断ったら断ったで、一人暮らしをしている同じクラスの緋勇龍麻の家にでも転がり込むつもりなのだろう。
 自分は蓬莱寺には甘いのだろうかと内心で頭をかかえながら、結局承諾するしかない。

 熱気の立ち込めた部屋に入り、まずエアコンを付けた。
「あっちぃぃっ」
 蓬莱寺はスーツとシャツをもどかしげに脱ぎ捨て、床に放り投げた。
 そのまま、冷房の風の当たる場所で涼みはじめる。
 服が皺になるなと思ったが、クリーニングに出せば済むことだと、拾って椅子の上に掛けた。
「俺は風呂に入るからな」
 と、蓬莱寺の背中にむかってそう云うと、ふいにこちらを振り向く。
 何をしたいのか、それからこちらを見据えたままで歩いてくる。
 その姿が目の前まで来たと思ったとたん、そのまま俺は唇を奪われた。
「……ワインの味がする」
 そう云われて、はたと思い当たる。
 先ほどのレストランで、二人で赤ワインを一本たいらげたのだ。
 俺はそれほど呑まなかったから、ほとんどのアルコールは蓬莱寺の胃袋に収まったというわけだ。
 顔にはまったく出ていないので気付かなかったが。
「蓬莱寺……お前、酔っているのか?」
「んだよ? 酔ってるように見えるのかよ? んなわけねーだろ」
 何がそんなに嬉しいのか、声がはしゃいでいる。
「酔ってるな……」
「酔ってねーっつってんだろ」
 自分の迂闊さに、溜息が出る。
「……お前から風呂に入ってこい。少しは目が醒めるだろう」
「へへへ。面倒くせぇな……いいだろ、そのままで」
 言葉を重ねようとした俺の口に、舌が入った。
 自分の手で蓬莱寺がベルトを外す。
 焦った。
「いいから、頭を冷やせ。後悔しても知らんぞ」
 羽目をはずさせすぎたか。
「ばーか。後悔なんかするかよ。嫌なら、てめぇが本気で抵抗すればいいだろ」
 俺の手を持ち、そして中心に導く。
「なあ、犬神?」
 囀るような笑いを含んだ甘い声が、耳元で散った。
 俺が拒絶できないと分かって仕掛けてきているのか……?
 言いようのない怒りが、腹の底からこみあげてきた。
 だが……
(それが出来ていたら、今この場所にお前がいるわけがないだろう……)
 相手には聞こえないくらいの低い声で、思わずそう、毒を吐かずにはいられない。
 理性が牙をむきだした本能に食い殺される。
 口付けを繰り返し、肌をなぞり、絡み付き、欲望の蜜が縛り付ける。
 完全に、負けだ。
 もっとも、俺の勝ち目など……最初からどこにも――ない。
 

Web初掲載:1999/12/3
Web再掲載:2000/12/01


アクセス解析 SEO/SEO対策