軽やかに鳴る終業ベルの音。
途端にはふーと机に突っ伏した響は深く深くため息をついた。
別に五限まであった授業のせいで疲れたとかそういうわけではない。だいたい響のこれは朝からなのだ。
だから誰も−−葵も小蒔も醍醐も響に近付こうとはしない。
朝、心機くさいとのたまった京一がその不機嫌の矛先を見事に秘拳・黄龍という形で受けたからだ。
触らぬ神に祟りなし。とは、正にこのことを言うのだろう。
しかし、懲りない奴というのはどこにでもいるもので。
「なあ、ひーちゃん。どうしたんだよ、いったい」
まともにくらいながらも、葵の『力』のおかげでシャキーンと立ち直った京一がいそいそと響の机に近付くと心配そうに響を覗きこんだ。
「べつに……」
その視線から逃れるように、響が顔を逸らす。
バツが悪そうな表情に京一の、勉学にはまったく役に立たない鋭い勘がぴんと来た。
「……また、雨紋と喧嘩してんのか……」
呆れたように尋ねると、図星だったらしくぴくりと響の眉が跳ねた。
じろりと半分座った目が京一を見る。
「喧嘩じゃない」
響の言葉に京一ははて?と首を傾げた。
「じゃあ、何だよ」
「……俺が約束を破っただけ」
ぽつりと響が呟く。
「……もっと質が悪いんじゃねェの、それ」
「でも、ちゃんとしてたわけじゃなくて、あいつが一方的にチケットを渡してきて、それで……」
ミもフタもない京一の台詞に、慌てて響が自己弁護に出た。
だが、すぐにしゅんとしたように再び机に頭を落とす。
「こんなコト、京一に言っても仕方ないか」
悲しげに言うと、またあの重いため息を吐きだした。
「後悔するくらいなら、謝ればいいだろうが」
どうせ、犬も食わない何とやらだろうと京一が明後日の方向を見たまま投げやりに言うと、ふるふる頭が振られる。
「やだ」
頑な言葉に今度は京一がため息をついた。
「んな意地はってんと、誰かに取られちまうぞ」
そう言った途端、びくんっと響の身体が大きく震えた。藍を含んだ黒い瞳が一瞬、大きく見開かれ、凍ったように動かなくなる。そのあまりの劇的な変化に京一は心の中で頷いた。
どうやら、これが今回の夫婦喧嘩の原因らしい。
「……そういえば、つい最近だったよな。あいつんトコのバンドのライブって」
カマをかけると、案の定引っ掛かった。
「昨日。昨日、渋谷の道玄坂の−−−で」
そこまで言って、自分がのせられたことに気付いたのだろう。
ぎっと響の目が京一を睨み据えた。
「きょおいち〜〜」
身体からふき上がる、濁流のような激しい『氣』に反射的に目をそむけた京一はその先によいものを見つけてほくそ笑んだ。
「ひーちゃん」
「…………」
「窓の外」
にっこり笑って指を差すと、ばちばちと静電気にもん似た青白い光を放つ響の目が一応、後を追う。そこで見つけたものに彼の怒りがみるみるうちに治まっていった。
「雷人……」
そう、京一が目をそらした窓の先には噂の御仁、雨紋雷人が立っていたのだ。
彼は校門のところから真っ直ぐこちらを見上げている。
「行かないの?ひーちゃん」
窓からその姿を見下ろして、硬直したように動かない響の背を押しやるように京一が言った。その声に我に帰ったように響は大きく頷くと、放り出したままの鞄を手に取って立ち上がる。
「京一、悪い!マリア先生に気分が悪くなったからHRは早退するとでも言っておいて」
それだけ言い置いて、慌てたように駆け出すのを見送ってから京一は一人ごちた。
「ライバルを助けちまうなんて、俺も大概お人良しだよな」
それから、自嘲するようにこつんと手にした木刀で己の額を叩く。
「……まあ、いいか」
窓の下、勢いよく駆けていく響の姿を目に映して、京一は微かに笑みを浮かべると、二人の様子を見守っていた仲間の方へと歩いて行った。
*
「雷人ッ」
校門の前に佇む年下の少年のもとに慌てて響は駆け寄った。
早くも下校しだしていた生徒たちがそんな二人に「なんだ?」、「誰だ、あれ」と好奇の視線をびしびしと送っている。目は口ほどに物を言う。の典型的な例だろう。
しかし、当の本人たちはその視線を完全にシャットアウトすると、お互いを見つめた。
「よォ」
響が危惧したような怒りこそ見受けられないが、それでもいつもと違うような気がするのは後ろめたいからなのだろうか。
「………どうしたんだ?」
思わず、身構える。
「それは……」
雷人が言いかけて、それからぽんと響の肩を叩いた。
「ここではちょっと……」
あからさまな視線は二人のただならぬ雰囲気にさらにグレードアップしている。さしもの雷人もうんざりしたように言うと、鋭い目が響を見据えた。
「響サン家、いいか?」
こくりと響も頷いた。
確かにこの視線の嵐はちょっと御免被りたい。
「大丈夫。
……ちょっと散らかってるけど」
努めて明るく言うと、少しだけ雷人の顔に笑みが浮かんだ。
「そっか……」
「じゃあ、行こうか」
その笑顔にほっとしたように自分も笑うと、響は家に向かって歩き出した。
*
小さな音を立てて鍵が開くと、響は雷人を部屋へと押しこんだ。
雷人も慣れたもので、さっさと上がりこむ。まあ、一人暮らしの部屋で気を遣われてもしょうがないのだが。
座ってと促すと、ここに来るといつも座る場所へ雷人は腰を下ろした。
何となく気まずい雰囲気が部屋を流れる。
それは自分が後ろめたいからなのか。
それとも、いつにない雷人の雰囲気のためなのか。
その雰囲気に耐えられなくて、逃げるようにキッチンでお茶を入れていると、
「……なんで昨日、来なかったンだ?」
ふいに雷人が口を開いた。
きたな、と響は思った。
今日、雷人が来た理由はどうせそれだろうと思っていたから。
それなのに、何度もシュミレートしたはずの言葉が言葉にならず、響はただ沈黙した。
貰ったチケットは一方的で、まして「行く」とも何とも返事はしていない。
そう言えば良いだけなのに、なぜか言葉は出て来なかった。
「……なーンてな」
そんな響の態度をどう思ったのか、ふいにがらりと口調を変えると、雷人はいつもの彼に戻って響を見つめた。
「………へ?」
突然の変化に正直ついていかれず、響が間の抜けた声をもらす。
呆然とする響に雷人がニヤリと笑いかけた。
「ンなふうに思うわけないだろ。別にハナっから約束したわけじゃないンだし」
まあ、来てもらいたかったのは事実だと少し照れたように雷人は金色の頭をかいた。
「今日来たのは、昨日ライブに来なかったことを響サンのことだから気にしてンだろうなって思ったからなンだ」
「……べ…別に……気にしてなんか……」
思いっきり図星を指されて、響の頬に朱が上った。
しどろもどろの弁解といい、真っ赤に熟れたトマトのような顔といい、「気にしてます」と言わん許りの己の態度にますます響が顔を染める。
「………すこしだけ」
それでも素直に認めるのも癪にさわって、響は指でこれっぽっちだけと十円玉くらいの大きさを示した。本当はこの何十倍も気にしていたのだが。
おそらく、そのことに雷人も気付いているのだろう。それでも、彼は小さく笑っただけだった。
「本当だからな」
響が念を押すと
「わかってる」
笑いをかみ殺して雷人が頷く。
そして、彼はふと笑いをおさめると、
「でも昨日はやっぱり来て欲しかったかもな」
そろりと顎の辺りを撫でて、呟いた。
「?、なんで?」
それにちくりと胸の辺りが痛むのを覚えながら、響が尋ねた。
すると、今度は雷人の顔が少しだけ赤らむ。
「その……昨日は、久々にオレ様が一人で作った新曲をやって……それが…なンだ。響サンのために作ったモンだからさ……」
照れてぶっきらぼうになった口調で雷人がそう言った。
その言葉に響が目を輝かせる。
「え?俺のため?」
聞きたいっ!とすがりつくと、雷人が慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「おいおい、オレ様、ギターも持ってきてないンだぜ。それに歌はオハコ違いで……」
「雷人」
じっと夜の帳が落りてくる頃の空の色をした瞳が雷人を見つめる。数分ほど、その睨み合い、……もとい、見つめ合いが続き、やっぱりというか何というか雷人が折れた。
「……笑うなよ」
「大丈夫。俺、雷人の声好きだから」
にっこり笑って、響がトドメをさす。
それでしぶしぶと居住まいを正すと、雷人はゆっくりと歌いだした。
その声に耳を傾けるように響が目を閉じる。
こういった歌にあまり詳しくないため、どういう音楽だとかは分からないが、それでも妙に心に残る。ただ、それが曲のためなのか、雷人が自分のために歌っているからなのか、それともその両方なのか。それは分からないが、何となく後者なのだろうと思う。
好きな相手がこうして自分のために歌ってくれるということは例え歌が分からなくともやっぱり嬉しい。
きちんと最後まで歌い上げると、雷人はちらりと上目遣いで自分の歌に聞き入っていた一コ上の恋人を見た。
「……どう…だった?」
「すごく、よかった」
そう思ったのは間違いではないので、素直に響が感想を述べる。
真摯な言葉に雷人がほっとしたように笑った。
「そう言ってもらえると、アカペラでも歌ったかいがあったってモンだな」
そうとう緊張したのか、雷人が大きく息を吐き出す。
「どうした?」
「〜〜緊張した」
「……いつもはもっとスゴいところで演ってるくせに」
「ギター専門だからな、オレ様は」
はいと手渡されたお茶を飲み干すと、そのまま、前に座る響の身体を雷人がそっと引き寄せる。
真剣な眼差しが響を捕らえた。
「……あれがオレ様の気持ちなンだ」
歌に込められた思い。
改めて雷人の心に触れて、響はわずかに頬を染め、頷いた。
見つめる雷人の目を逸らすことなく受け止めて、その頬に手を伸ばす。
「うん……」
柔らかく微笑むと、先程、歌を紡いだ唇に響は優しく口付けを落とした。
「わかってるよ、雷人」
*
膝の上に抱えられるようにして、二人は深い口付けを交わす。
濡れた音を立てて唇が離れると、体内から湧き上がる熱に潤んだような瞳が雷人を見下ろした。
「雷人」
猫がすり寄るように身体を寄せると、しなやかな指先が十字の入った学ランに伸ばされる。
前を外していた上着はあっさりとその手の前に脱がされ、下に着込んでいたランニングがたくし上げれた。
そこに現われた逞しい胸板に響がついばむようなキスを幾度も繰り返す。
その合間に雷人の手が響の服を乱していき、晒した肌を丹念に探っていった。
背から腰に手を這わせると、響の身体がびくっとのけ反る。
眼前に差し出された胸に雷人が唇を寄せた。
「………あ…ッ」
赤く色付く胸の果実を口に含むと、切なげな声が口をついた。
舌で転がすと、逃げるように身体が動く。その動きを利用して、雷人はゆっくりと自分に縋りつく身体を床に降ろした。
覆いかぶさるようにして、耳元から首筋へと舌を走らせると先程いじっていた突起を今度は指でなぶり始める。
両の手でどちらの突起も押しつぶすようにすると、熟れた果実のように赤さを増していく。
「んっ……」
浮き出た鎖骨の上を強く吸うと、桜の花片にも似た薄紅い跡が残った。その花を胸元にも散らしてから、指で摘んだ突起へと舌を絡ませた。
「……だめ…らいと……」
執拗に胸をなぶる雷人の指に手を重ねると、一層熱いものを求めて涙に揺れる瞳が年下の恋人を見上げた。
「お…ねがい……」
指を取り、自分の舌でそれを濡らしていく。
「響サン……」
懸命に舌を絡める響の滑らかな黒髪を撫でてやりながら、雷人は微笑んだ。
そっと指を口から引き抜くと、待ちわびる蕾にそれを押し当てた。
微かに響の身体が震える。
頑に侵入をこばむそこを少しずつ、焦ることなくゆっくりとほぐしていくと、ふいに響の腕が上がった。
「も…いい…から……早く」
首に絡まる腕が小刻みに震えている。
響の限界が近いことを悟って、雷人は自分のそれを蕾に押し当てた。
「いいンだな……?」
低く尋ねると、幾度も首が縦に振られた。
回された腕がぎゅっと雷人の身体を引き寄せる。
「きて……」
請われるままに雷人は己を沈めた。途端に強く締めつけられ、小さく呻く。
それをかき分けるようにして最後まで己を埋め込むと、彼は辛そうに眉をひそめる響を見下ろした。
「大丈夫か?」
耳元で囁くと、閉じられていた瞳がゆるりと開いて、雷人を映す。
「雷人………」
甘い声が自分の名を呼び、それをこぼした唇へ何度目かの口付けをすると、ゆっくりと雷人は腰を使い始めた。
後には響が放つ嬌声にも似た喘ぎだけが部屋を満たしていった。
*
「そういや、なンでライブに来なかったンだ?」
ふと思い出したように、響を腕に抱えたまま雷人が尋ねると、彼はびくっと身体を揺らした。
瞳があらぬ方向をさまよっている。こんな態勢でなければ、おそらく口笛あたりも飛び出しそうなこれは、明らかにごまかそうとする態度である。
「……響サン?」
重ねて問うと、ようやく観念したように響がため息をついた。
「俺さ…駄目なんだ。あの大きな音が」
投げやりにそう答えた。
「音って……音?」
「そう。CDとかなら当然、自分で音量を調節できるけどさ、あーいうところの音って何でこんなに馬鹿デカイんだって思うくらい大きいだろ。中学の時、はじめてライブに行ったんだけど、ちょうどスピーカーの近くになっちゃって、もううるさいのなんのって……」
そのことを思い出したのか、響が顔をしかめる。
その顔がふいに朱が染まった。
「……それと、さ。雷人が女の子たちに名前呼ばれてたりするかと思うと、イヤだし、見たくなかったから……」
だんだん尻すぼみになる声に雷人は腕の中の身体をさらに強く抱きしめた。
「オレ様は、響サンだけだぜ」
そう言う雷人の顔も赤く染まっているのを見て、響は頷いた。
「ああ」
自分から腕を絡ませると、雷人の耳元で囁いた。
−−−俺も雷人のものだよ。